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身体と心を考える。聖地熊野の漢方薬屋12 三英傑と病

私は歴史が好きで、歴史小説も読み、大河ドラマもよく観ます。日本人の多くが戦国時代の英雄と挙げる三英傑、信長、秀吉、家康。それでも病に悩まされていたのではと思われます。今回はそんな彼らの健康状態について。(参考:「病気が変えた日本の歴史」 篠田達明著 NHK出版)


短気で激高しやすい織田信長の場合

 

近世日本の偉人と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が挙げられることに異論のある方はいらっしゃらないと思います。特に、織田信長は、戦国時代を生き抜く中で、様々な改革や斬新な用兵、戦術で幾多の戦を勝ち抜きました。あわや天下統一まであと少しというところで、謀反に会い、その道を絶たれたこともあり、これまで数多くの映画・ドラマ・小説などに主人公として、また重要な脇として登場し、いまだに熱烈なファンがいると言います。
 さてこの三人の性格を表すものとして、ホトトギスを吟じた句はあまり有名ですね。
 「鳴かぬなら殺してしまへホトトギス」信長
 「鳴かずとも鳴かしてみせうホトトギス」秀吉
 「鳴かぬなら鳴くまで待てよホトトギス」家康
と言う句(後に現代語に近いものに変容)ですが、これは江戸時代後期に、肥前の国平戸藩主の松浦静山著「甲子夜話」に書かれているものです。後世の人がつくったものとの説もあるようですが、三人三様で、おもしろい句ではあります。信長の句は、彼の短気なところを表していますが、短気で怒りっぽい性格であったことは事実のようです。昔、信長を描いた「織田信長像」(加納元秀画)などを元に、骨格から生前の彼の声を再現したCMがありました。確かNTTのものだったと思いますが、それを聞くと、甲高く、いかにも短気な印象でした。
 ポルトガルの宣教師フロイスが、信長に気に入られ、その庇護の下で著した「日本史」によれば、信長は非常にせっかちで癇癪持ち、瞬間湯沸かし器のように激高しやすく、時に額に青筋を立てて怒り出したと書いているそうです。短気で激怒する人は、高血圧傾向であることが多いですよね。また、信長は睡眠時間が極端に短かったようで、これも、高血圧患者に特徴的な短時間型睡眠です。加えて、尾張地方は味付けも濃く、彼もそれを好んだとのことで、塩分過多になっていた可能性もあります。後年朝廷を軽んじ、貴族達との会談も、まるで部下に接する時のようだったとも言います。こんなに尊大になっていったのも、脳動脈硬化によるものではとの仮説もあります。
 そんな信長さんが、漢方を飲むとしたら韓国ではたいへんポピュラーな「牛黄清心元」でしょう。これは牛黄、麝香をはじめとする27種の生薬で構成されたもので、心臓などの循環器に加え、自律神経に働いてイライラを鎮める働きもあり、かつ即効性もありますので、おそらくは信長さんにはピタリとはまるモノだと思います。戦国の武将でもあったので、戦のストレスは並大抵ではなかったとも思います。そんな出陣の際にもこれを服用すれば、冷静沈着な采配が期待できたとも思いますが。いかがでしょうか、信長様。

老人性認知症?豊臣秀吉の場合
 

 貧しい出自にも拘わらず、戦国時代を終息させた人物と言えば、豊臣秀吉でしょう。今もその立身出世物語は、テレビドラマや映画演劇、小説などで何度も取り上げられています。
 若い頃は、その頭の回転の良さと「ひとたらし」とも言われるほどの籠絡上手で、貧弱な体格ながら、織田信長の手足となって働き、とうとう関白太政大臣として栄華を極めるところまで出世しましたが、晩年にはその健康状態と精神状態は急速にかげりを見せたと言われています。長崎のオランダ商館長ティチングの「日本風俗図誌」には「秀吉は背丈はほとんど50インチ(127㌢)にも満たぬ小男で、猿のような丸い目をしていたので『猿面』という渾名をつけられていた」と書かれるほどだったようですが、127㌢というのは少々大げさでしょう。
 文禄元年(1592年)に明国を討とうと、朝鮮に出兵します。これもある歴史家によれば、征服欲と言うよりも、戦国時代終息によって、職を失った武器製造関連の業者や、我が国だけでは限界に来た恩償としての土地など、戦国時代後の経済対策のための膨張主義だったとの説もあります。ただ篠田達明さんによれば「つぎなる国割りとして,日本・中国・朝鮮にまたがる三カ国支配の地図を家臣に示した。そこには天竺国(インド)まで領土を広げようという空想的な侵略構想がかかげられていたが,計画は大局的判断を全く欠いており、私(篠田さん)には老人性痴呆からくる妄想にふけっていたとしか思えない」と書いています。
 案の定、この出兵は失敗。多大な被害を出します。さらに、慶長二年(1597年)に再度の出兵。この間、秀頼誕生とともに、秀次との関係が悪化、高野山で切腹させ、秀次の係累まで処刑してしまうという事件もおこします。これら感情の起伏の激しさなどは、脳動脈硬化症からくる認知症の影響も感じられます。
 翌慶長三年(1598年)には、心身の衰えが顕著となり、食欲が落ち、著しくやせが目立ち、歩行も困難、夜尿症にもなったようで、あきらかに認知症の進行が見られます。同年五月に貧血発作を起こし、胃痛に悩まされるようになり、当時の名医達が輪番制で常時その介抱を試みています。痢病(消化器病)と名付けて薬物を投与、また秀吉の希望で有馬温泉にて湯治も行っています。
 六月には極度の食欲不振、七月には水分以外はほとんど摂れない状態となり、痩せもひどくなり、身体中に激痛が走るようになります。八月初旬には、とうとう観念した秀吉、前田利家、徳川家康ら五大老に遺言状をしたため、八月一八日に死去しました。五大老からわが熊野の午王誓紙にて証文を取ったとの話もあります。篠田さんは「臨床経過から察するに、死因は胃がんなどの消化器がんが考えられる」と述べています。家康も、タイの天ぷらにあたって死んだという有名な話しがありますが、実は胃がんだったという説が有力です。戦国のヒーローは、強度のストレスにさらされるためか、脳卒中と共にがんによる死が多いことは、秀吉でもあきらかです。現代にも通じる点、気をつけたいものです。

「健康オタク」徳川家康の場合

 歴史を振り返ると、戦国武将にはなぜかガンや脳卒中がおおいと、篠田達明さんは「病気が変えた日本の歴史」で記しています。また、有名な戦国武将は二つに大別できるとして、一つは大酒飲みで酒毒にやられた豪傑タイプ(上杉謙信ら)、もうひとつは家門を守ろうと養生し長寿であった質実剛健タイプ(徳川家康、毛利元就ら)になると書いています。
 前回は織田信長と高血圧について書きました。今回は、「鳴かぬなら鳴くまで待てよホトトギス」の句をつくったとされる徳川家康について見てみます。
 彼は、長かった人質生活で得た教訓なのか、たいへんな現実主義者でした。「長寿こそ最後の勝利を掴むカギだと確信し、病気予防に専念した。三河の長寿者が麦飯と豆味噌を常食にしているのをみてグルメを排し、粗食に徹した」(「病気が変えた日本の歴史」)と記しています。家康の肖像画を見ますと、いずれも恰幅が良く小太りに描かれています。最近でも少しの肥満体の方が長生きするとの調査もありますが、彼も当時としては長寿といえる七五歳まで生きました。
 記録では、身体を鍛えるために晩年まで、刀はもとより、槍、弓、鉄砲、水練にいたるまで日課としていたそうで、加えて趣味が鷹狩りでした。食事は粗食で、麦飯に焼き味噌(三河特産の八丁味噌)、必ず火を通し生ものは避けたとあります。
 粗食に拘わらずというか、はたまた粗食故か(個人的には粗食のお陰と言いたいですが)精力絶倫で、なんと側室19人、子女20人。最近年齢差婚が話題ですが、加藤茶さんもびっくりの56歳下のお大の方が、晩年の「おきに」だったそうです。医薬品にも造詣が深く、現在も漢方の原典として活用される「和剤局方」という古典を自分の馬の鞍に入れて、つねに読んでいたとか、陣笠の裏に生薬を配合した常備薬を貼り付けて持っていたとか、あるいは明国の古典「本草綱目」を手に入れて、それを侍医に講義させたと記録に残っています。100種を超える生薬や、それを調剤する薬研や薬匙、天秤など、当時の医師も顔負けの道具類もつねに身近にあったとされ、さらに自ら調合した薬、「万病円」「寛中散」「銀液丹」などを部下に分け与えていたともあります。まさに「健康オタク」。これらは主として胃腸薬や精力剤と言われていますが、彼自身の愛用薬は「八味地黄丸」でした。これは、「腎虚」の妙薬で、症状で言いますと、下肢のだるさ、冷え、耳鳴り、めまい、腰痛、夜間朝方のトイレ、日中の頻尿、むくみなどに用いますが、中高年の強壮剤、「抗老化」薬としても、男女問わずよく用いられます。但し、各社から発売されてますが、古典に忠実に原料から吟味し、かつ製造方法も古典の通りの品は、TY社の「八味地黄丸」のみです。ダイコンでも獲れた場所によって美味しさが変わりますが、生薬も産地が異なり、製造方法が異なると自ずと効果も異なってきますのでご注意下さい。 
 健康ブームの昨今、徳川家康が現代でも生きていたら、「オレの時代がきた」とほくそ笑んでいたのではないでしょうか。

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