異国をうたう、それぞれ

7月~8月にかけて、二つの短歌企画に参加した。結社の先輩である上條素山さんが中心となった、映画『タゴール・ソングス』応援企画短歌ネプリと、『あおなじみ』でもお世話になっている鈴木智子さんがTwitter上で呼びかけていた短歌同人『異国』である。小さいころから外国に人一倍あこがれが強かった僕にとって、どちらもとても興味深い企画だった。


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以下の作品は『タゴール・ソングス』応援企画からの引用。


故郷の言葉はひとつの声となり「ひとりで進め」とくりかへす夜/寺井龍哉「百年詩人」

鉄道が青空席をもつ国に<ひとりでも行け>という歌がある/鈴木加成太「青空席」

ベンガル文字の曲線に似てゆるやかにうねるタゴール・ソングの旋律/笹川諒「仮説の映画館」

いにしえの鍵のようなるその文字のひらく扉のさきのコルカタ/貝澤駿一「路上の子」

マンゴーの樹の下に野外授業受く風に吹かれてシャンティニケタン/光野律子


佐々木美佳監督『タゴール・ソングス』は、非西洋圏で最初のノーベル文学賞受賞者となった詩人・タゴールと、彼の残した数々の「歌」をめぐる現代のドキュメンタリー映画であり、上條さんの呼びかけで多くの歌人が(そうじゃない方々も)この映画からインスパイアされた短歌をこのネプリに寄せた。そうした歌のひとつひとつがまさに現代によみがえる「タゴール・ソングス」であるといったら少し大げさだろうか。僕はこの<文学がめぐる>ような空気感がすごく好きだ。タゴールという偉大な詩人の延長線上に、僕が、僕らが作った短歌も息づいている。そんな気分に浸らせてくれる。


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この企画と前後するようにして、須田覚『西ベンガルの月』(書肆侃侃房)が出た。西ベンガルでエンジニアとして駐在する作者が、ノンフィクション小説のように淡々と――少しの叙情を含みながら――ナマのインドを描いていく、そんな歌集である。


一本の指しかないと右手見せ左手で取る十ルピー札

「ヘビが出た」と言えば「もともとこの土地は彼らのもの」と言うインド人

合掌をすればかならず合掌すインドの民は僕を受け入れて

「ドゥルガーは守ってくれたこの土地を」祭はつづく夕焼けのなか

煉瓦焼く白煙のぼり職人の立小便のきらめく朝(あした)

蚊の腹にどれだけの血が貯まるのか潰せばアショーカの手のひらだ


第一部から引く。突然現れる新しい文化や歴史、目の前でくり広げられる貧富の差というドラマ、そんな異国での生活のいちいちに、子どものように新鮮に驚きつつも、作者は丁寧に歌を紡いでいる。「十ルピー札」を受け取る左手にショックを隠せなかった作者は、やがてその手のひらに古代インドの伝説の暴君であるアショーカ王を重ねるようになる。生活の中で文化が身体化してくることで、歌は新たな展開を生むようになる。


牛の目は我を見ていたそしてまた道に倒れたブッダのことも

野良犬は等間隔に昼寝する深く目を閉じ耳だけは立て

ぬばたまの夜道歩けばクラクションに蹴散らされる 野良犬じゃない

白地図に仮で描いた国境を挟んで人は殺し続ける


第二部は短く、短いながら密度の濃い歌が並ぶ。ここまでくると「インド」は作者にとっての「フィールド」を超え、自分の中に内在するもうひとつの価値観のようになってくる。旅行者目線の歌が少なくなり、その眼ははっきりとここで生きていく「私」自身をもとらえている。


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異国で<生きる>ということ――幼いころから人一倍異国にあこがれていたくせに、その機会を、時間を、そして何より勇気を持ち合わせていなかった僕にとって、そうした異国で<生きる>自分を見つめる歌は何より魅力的に思える。ありていに言えば、それは単なるジェラシーでもある。


水を汲む子供、籠から逃げた鶏(とり)、山羊を割く人、朝の市場(いちば)に

われによく似た一人あり貧民街(スラム)にて金せびり来し乞食の中に

谷岡亜紀『臨海』


谷岡亜紀は常にアジアの<都市>の風景(掲出歌ではコルカタ)に、80年代の荒廃に向かう<日本>という超巨大国家の行く末を、そして何よりそうした世界に<生きる>自分自身の行く末を見てきた。どの歌も一本のドキュメンタリー映画を見ているようで、骨太な叙情に満ちている。作歌を始めたばかりのころから、僕がもっとも影響を受けてきた歌人の一人である。


泣きたきはわれなりされど音立てて朱の花さけば異国はふかし/坂井修一『アメリカ』

バラ窓の紫が胸にしみてしみて苦しかりけりノートル・ダムよ/日置俊次『ラヴェンダーの翳り』


坂井はアメリカで、日置はフランスで、若き研究者としての一時期を過ごしている。異国にひらいた青年期の<知>が、あるいは今の世界を生きる<血>となって身体に確かに流れている。


言語学者、あるいはロシア語教師として著名な黒田龍之助さんは、多くの著書の中で、自分はいかなる外国にも長期滞在したことはない(あれだけ多くの外国語に通じている黒田さんが、である)と述べている。若手英語教師に向けて書かれた『ぼくたちの英語』(三修社、2009)では、英語教師に留学は必須ではないと断言していて、留学はできないけれど英語教師になりたかった僕は、その言葉にずいぶんと励まされた思い出がある(僕は黒田さんの著書はすべて読んでいる)。しかしそれでも、人生のある時期、とりわけ若く多感な時期を異国に暮らす経験が、坂井や日置の歌のように後年自らの文学の血肉となっているさまを見ると、その決断ができた自分のことをどうしても夢想してしまう。後悔はしないが、やはりあこがれはするのである。


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短歌同人『異国』は、おもしろい取り組みだと思う。好奇心旺盛で、かつフットワークの軽い鈴木さんの声掛けで、「異国をうたう」というそれ一点をコンセプトとしたネプリが実現した。僕は生業が生業のくせに、旅行者としての――それも、たった三か国の――<異国>体験しかないから、本当の意味でそれが「血肉」となった歌は詠むことができないかもしれない。それでも、自分の中であこがれとして持ち続けている<異国>を、<知>として歌に取り入れることはできる。物理的に<異国>を体験することが難しくなった今、その扉を開き、自分の偏狭な価値観を更新するのは、無数に散らばる<知>と、それを探求する<好奇心>なのだと思う。


人生は一度きりだと言う人のしわの数ほど売られるチュロス/深山静

ひとびとの仮面はとおくかわたれのアッシェンバッハの死を思いたり/貝澤駿一

あかねさすトマトまみれの群衆が垂れ流してる平和な血液/大城紫乃

ヤクーツクの夏至の祭りの草競馬ルールわからず草を食む馬/白川ユウコ

すきなだけ身をけずり取るナイフの刃かりうどたちの俺は末裔/笛地静恵

小惑星破滅のような眩しさでラマダン月がまた訪れる/鈴木智子


『異国』は全五回の発行を予定しているが、毎回親となる人がその回の小テーマを決めるという構成になっている。今回のテーマは深山さんによる「フェスティバル」だった。祭りにはその国の、その土地の人々の生きざまが息づいている。リオのカーニバルのような地球規模の祭りもあるし、僕が暮らす世界の果ての小さな町にも、それ相応の祭りはある。


あのぴーひゃらと遠く響いてくる囃子の音、子どもが叩く盆踊りの太鼓、屋台のおじちゃんたちがビールを飲みながら談笑する音――今年はそれらをまったく聞いていない。世界の果ての小さな町には、静かな夜が続いている。




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