一分で読む現代短歌⑤ 木村比呂

一人きりサーティーワンの横で泣き ふるさとにする吉祥寺駅(木村比呂)※枡野浩一『ショートソング』(集英社文庫、2006)所収、初出は枡野浩一編『かなしーおもちゃ』(インフォバーン、2005)

サブカルチャーや学生、お笑い文化の発信地というイメージが強い吉祥寺。僕は数えるほどしか行ったことのない町であるが、吉祥寺を舞台にした文学作品は好きで、くりかえし読んだ作品も多い。「吉祥寺文学」というジャンルは、又吉直樹『火花』が芥川賞受賞・映画化を経て人口に膾炙したことで、改めて注目されるようになった印象だ。しかし、僕の中での「吉祥寺文学」の傑作は、枡野浩一『ショートソング』である。

掲出の一首は、『ショートソング』の主人公、国友克夫くん(名前は塚本邦雄のアナグラム)が物語内で詠んだ作品ということになっている。「ふるさとにする吉祥寺駅」という下の句は多感な若者らしく、軽快さと繊細さを同時に感じさせるような、なんとも絶妙なニュアンスを帯びている。小説の内容は脇に置き、この歌の表現だけで解釈するとなると、やはり「ふるさとにする」という言葉に感じられる決意と哀愁がポイントになるだろう。

「ふるさと」は基本的には選ぶものではなく、与えられるものだ。都会暮らしの僕には「ふるさと」の本質的な意味はわかっていないのかもしれないが、たとえば人は「ふるさと」を選んで生まれてくることはできないという単純な事実を突きつけるだけでも、それは明らかである。しかし、人には生まれ育った「ふるさと」を捨てて、新しい「ふるさと」を自分で選び取るという生き方もある。中学校などでよく歌われる、廣瀬量平作曲・岩間芳樹作詞の合唱曲「海の匂い」では、生まれ育った海の村を捨て、集団就職のため都会に出て行く若者の心情が、力強く、かつ大いなる哀愁を持って描かれている。「ふるさとは/海の村にはもう/若者を育てる力がないという」と彼らは歌う。発展の可能性のないふるさとに見切りをつけ、自らの未来のために新しいふるさとへと舵を切る。しかし、それでも「若者を育てる力がない」ふるさとに対する愛着の念は消えることはない。ここでは自分がふるさとを「選んだ」のか、それとも時代によって「選ばされて」しまったのかという、高度成長期の若者たちの葛藤が感じられる。

「吉祥寺駅」を「ふるさとにする」という、現代の若者たちの想いはどうだろうか。多くの人たちで共有されている事実として、吉祥寺は夢と希望に満ちた若者たちが、自らのそれを叶えるために居を構える町である。明らかにそれは「選ばされた」のではなく自ら「選んだ」町であり、表面上はそうした夢や希望によって活気付いた町の様子を想像することができる。しかし、現代という時代は、若者の夢や希望に冷たくなっていることもまた事実だ。景気の後退、同調圧力、周囲の人々の目線、そして何より「こんなことをいつまでやっているのだろう」という少しの迷いが、吉祥寺という町の風景を希望から絶望へと塗り替えてしまう。

若者は一人で「サーティーワンの横で泣」いている。何が起こったかは想像するしかないが、自らの才能に見切りをつける、そんな瞬間がもう間近に迫っているのかもしれない。しかし、それでも選んだ「ふるさと」である吉祥寺駅を決して捨てないという決意がこの歌の主体を走らせる。「サーティーワンの横で泣」く、そんな経験が記憶となって、血肉となって、「ふるさと」である吉祥寺に刻まれるのだ。その涙が持つ意味を考えたとき、若者にとっても「ふるさと」の見方もまた変わってくるのである。



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