一分で読む現代短歌⑥ 川島結佳子

都市、田園、都市、田園ときてたまにケーズデンキが見える東海道/川島結佳子『感傷ストーブ』(短歌研究社 2019)

長旅のさなか、車窓に流れる景色をふと眺めている。都市と田園、また都市と田園。同じような風景がただひたすら続くその中を、ささやかな彩りを添えるかのようにケーズデンキが屹立する。そんなふうに世界をざっくりと三つに分けて知覚する主体はいま、そのどれからも隔絶された狭い空間にいて、その不穏さを噛み締めているように思える。

ここで並列される<都市><田園><ケーズデンキ>といった装置が象徴しているのは、<現代>の日本社会のあらゆる要素が極端に平準化され、容易に複製可能になっているという現状である。<都市>は日本中どこでも同じような様相を呈し、その<都市>に集まってくる人間もまた、個々に目を向ければ十分に「個性的」であったとしても、遠目から見ればどこでも同じような日常の中に埋もれてしまっている。<田園>はむしろ、変化していく<都市>に取り残される形で、やはりどこでも同じように滅びていく運命にある。そうして都市は都市を、田園は田園を自己複製していくのであるが、これを支えているのがまさしく「量販店」である<ケーズデンキ>のような装置の展開だ。車さえあれば誰でもアクセス可能な<ケーズデンキ>は、それを持っていれば誰でも一定以上の生活を送ることができるというような設備を安価で提供し、この世界の平準化に一役買っている。つまり、<都市><田園><ケーズデンキ>の並びはまさに、そこにまた複製された暮らしが現れてくるということ、我々の暮らしもまた他の誰かの暮らしの複製に過ぎないということを暗示しているのである。作者は「旅」という非日常の中で、そのどうしようもない虚無感に気づいてしまう。

ところで、話がだいぶ変わってしまうが、歌集冒頭の連作「感傷ストーブ」には、作者が趣味として心を寄せているラジオについて詠んだ歌が並んでいる。

ラジオにて初めて知った「童貞」と言われる人の数の多さを/川島結佳子『感傷ストーブ』
「芸人になりたい」といったラジオネーム感傷ストーブは今何してる/川島結佳子『感傷ストーブ』

ラジオのパーソナリティとリスナーの間には、例えばテレビのワイドショーのコメンテーターと視聴者などと比べても、ずっと濃密で、ずっと深い関係性があるのだろう。情報が電波に乗って複製されるという点では変わらないのに、ラジオを通じてやってくるそれのほうがずっと詩的に感じるというのもうなずける。ラジオネーム「感傷ストーブ」という見知らぬ(しかし同じラジオのリスナーという「同志」のような人物)の生き方をつい気にしてしまう、「童貞」と呼ばれる人たちが多いという情報をなぜか無視できなくなってしまう。それはおそらく、情報の伝達ツールとしてはすでに表舞台を退いた感もあるラジオが届けるそれが、単なる複製としてではなく、何か特別なものとして作者の胸に直接届いてくるからなのではないだろうか。

もっと広い公共の電波に乗れば、「感傷ストーブ」の人生は他の誰かによって容易に消費されてしまう。どこにでもある笑い話にされてしまう。童貞が多いという情報は格好のネタとして、あらぬ加工をされて広まってしまう。そう、<都市>と<田園>と<ケーズデンキ>のようなざっくりとした世界の中で、それらは埋没されてしまうのである。だからこそ、「感傷ストーブ」の物語が複製されないために、川島は歌を作るのではないだろうか。言葉にすれば、それはもう何かのコピーではない、自分にとって特別な何かに生まれ変わるのだから。

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