一分で読む現代短歌③ 松村由利子

地に落ちたマンゴー子らと拾いおり誰かの余生みたいな夕べ/松村由利子『光のアラベスク』(砂子屋書房 209)

フランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーの代表作、『落穂拾い』に描かれているシーンを思い出す。たわわに実る春ではなく、もうほとんど枯れかけている夏の終わりに実を拾う農民たち。「摘む」のではなく「拾」わなければならない。そんな貧しい農民たちの現実を衝撃的なタッチで描いた名作だ。僕自身もそうであるが、絵のことはあまり詳しくはない、西洋の文化圏にはなじみが薄い日本人でも、酷使や貧困に耐える農民たちというモチーフにはうなずける部分も多いだろう。ゆえに記憶に残りやすい作品だ。

作者は東京での記者生活の後、現在は沖縄県に暮らしている。ここでは、その目に残っているかつての『落穂拾い』のイメージを、離島に来てマンゴーを拾う自分の姿に重ね合わせているように見える。しかし、掲出歌にはミレーの絵に描かれているある種の悲壮感や、労苦に耐える厳しい現実といった視点が色濃く出ているわけではない。「マンゴー」と「子ら」が明るく響きあいながら、初句の「地に落ちた」という描写が歌を引き締めている。もしかすると台風などの被害を受けて、地面に散らばっている商品にならないマンゴーを拾い集めているのかもしれない。『落穂拾い』が遠めに見ると非常に穏やかで落ち着いた絵に見えるように、実際にそこでの生活を知らない読者にとっては、この歌もある「離島」という「原風景」を呼び起こす穏やかな歌にすぎない。

そうした「原風景」に重ねあわされる「誰かの余生みたいな夕べ」という下の句が、この歌にさらなる陰影を与えている。「余生」ということばの持つ意味は重い。「余生」そのものが自分ではない「誰かの」人生であるかのような感覚を抱かせるからだ。自分で選択してこの地に来たはずなのに、それはまるで自分の人生ではないかのようで……こうした屈託をある意味でその地の象徴である、「地に落ちた」「マンゴー」が映し出している。そう考えてみると、「誰かの」「余生」という表現はマイナスにマイナスを掛け合わせているような印象である。「誰かの」「余生」がめぐりめぐって自分のものになっていくその過程を、作者は現在進行形で感じ取っている。

生き方として誰にでも選べるようなものを、この主体は選択しているわけではない。「地に落ちた」「マンゴー」が「誰かの」「余生」ではなく「自分の」「人生」であると確かに言えるようになるまで、作者は歌い続けるのだと思わせる。

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