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旅とはそういうものかもしれない。日常の窓を開けて、新鮮な空気で入れ替える。
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#旅コラム

旅|知らないことがあることを知る

 風を受けて、目黒川の水面が絹のようにたゆたう。唯一無二の美。人間には創造できない、自然による麗しき景観。視線を上へと、四方へと向ける。心を開いて眼を注げば、そこにある造形の魅力に気づく。屹立するビルでさえ、独立した作品のように映る。  MUJI HOTELに泊まった。木の温もりが周囲を覆い、そこからは雑音が消え失せる。無駄な線さえも存在しない。ほのかに灯る蝋燭のように、銀座の街並みが発する光を窓越しに見つめた。穏やかな川の流れのように、時間の移ろいに身を浸す。  八月に

旅|景色と心情

 東京駅から、わかしお五号に乗った。臨海部を抜け、車窓に緑が混じり始める。畑が焼ける香りは過去の記憶を呼び起こす。千葉の広い土地に身を置き、身体の凝りのようなものが和らいだ気がする。世界を覆い尽くすように広がる橙の夕焼け。それを遮るものはない。地平線をずっと見ていたかった。澄んだ満月は美しい。しかし、満月を白いと思ったことはなかったかもしれない。

旅|陽の光|3

 雲に覆われた空。そこから吐息のように雨粒が落ちてくる。橙と緑の線が差す東海道本線の車両に乗り込んだ。目指すは静岡の地。異国情緒にあふれた車内の空気を吸いながら、揺れに身を任せる。島田、藤枝、焼津。見慣れない駅を通過するたびに、僕は車窓に眼を向ける。何も期待していないが、視線は新たな景色を無意識に求めているのかもしれない。  ざわざわとした人の気配。起伏に富んだ壁とビルの連なり。静岡駅は想像の通り、都会だった。地下街を抜け、道路を練り歩き、雨を避けるようにしてカフェに入った

旅|陽の光|2

 掛川駅を中心に街を歩いた。目当ての店に足を運び、近くのスーパーでミネラルウォーターを買った。掛川駅から宿がある掛川インターチェンジ付近へと続く緩やかな坂の感触が脚に残る。何気ない風景だ。しかし、水気を多く含んだ空気で身体を満たし、うっすらと差す夕焼けが心に残る。  「さわやか」の「げんこつハンバーグ」。エコパでのサッカー。食とサッカーは僕を幸せにしてくれる。遠藤保仁の技術は健在だ。躍動感は薄いかもしれない。しかし、ボールを淡々と適切な場所へと運ぶ精緻な技を拝むだけでも、こ

旅|陽の光|1

 雨が降り注ぐ土曜日の朝。僕は最低限の荷物をバックパックに詰め、静岡へと向かった。電車を乗り継いだ。乗り換えた横浜駅でビールを買った。「ジャン・フランソワ」のパンを買った。そのパンは東海道線のグリーン車から眺める風景をより艶やかにしてくれる。そして、喉に流し込むビールは心身の凝りのようなものを緩めてくれた。車窓に増える緑を横目にしながら、小田原に辿り着いた。  朝から大地を覆った雨は僕の行く手を塞ぐ。小田原から先の在来線は大雨によって運転を見合わせていた。熱海、興津と思い描

旅|餃子と栃木SC

 横浜駅の構内を風のように抜ける。ホームに停車した東海道本線に僕は駆け込んだ。戸棚の上にうっすらと溜まった埃のような疲労。それを一掃したかった。視界に映る景色を変え、体内に新鮮な風を吹き込みたかった。宇都宮が僕を呼んでいた。  その地で過ごした二十時間。僕の身体は多様な餃子といくばくかのビールで満たされた。人が個性を持つように、口にしたすべての餃子はそこにしかない味を秘めていた。香ばしく焼き上がった皮。マヨネーズと一味唐辛子による、味覚と視覚のコントラスト。翡翠色をした水餃

旅|太陽の街、青の世界|5

 松本バスターミナルからシャトルバスに乗り、アルウィンへと向かった。車窓に切り取られた風景はビルの群れから大地に広がる田へと姿を変える。遠くに連なる山々は堅牢な城壁を僕に連想させる。  アルウィンは青い世界に存在している。澄み渡った空気を吸い込んだ。それは真水を口にするかのように、僕の乾きを癒してくれた。透明な海があるように、透明な空気がこの地を支配している。その空気は空の色を反射する。空は青かった。今までも青空を見てきたが、そんな思いが体内を駆け巡る。  アルウィンとサ

旅|太陽の街、青の世界|4

 松本市美術館を訪れた。草間彌生が作り上げた、そこにしかない風景を切り取りたかった。大小の赤い水玉が眼に飛び込む。その前には今にも動き出しそうな花々のオブジェが鎮座する。多様な色を使いながら、それらは混ざることがない。しかし、明確な輪郭を持ちながらも、確かな調和を生み出している。  書道部の学生たちが純白の衣をまとい、館内へと駆け出していく。このオブジェだけを見て、美術館を後にしようと思っていた。それなのに、身体はここにいたいと願っている。清冽な空気に包まれた、美の熱源。僕

旅|太陽の街、青の世界|3

 松本駅の周辺を歩いた。心電図でも記録するかのように、その一歩一歩で初めて訪れた地の鼓動を全身で感じ取ろうとした。客を待つ数台のタクシー。発する赤いライトとエンジンから立ち上る湯気。それらは闇夜で獲物を狙う獰猛な獣たちを僕に想起させた。  盛り塩のように、電灯の下には雪が積もる。指先と足先に冷気が募った。しかし、押し寄せる寒気は清らかであり、含まれた水気は潤いを与える。コンクリートによって遮断されることなく頰を触る。冷たくも暖かい。旅への期待感も内包した零度の気配に僕は身を

旅|太陽の街、青の世界|2

 柏駅から常磐線に乗った。窓外の景観は時間の経過とともに、紫から黒へとその色を変える。日暮里から山手線に乗車する。隣に座った女性がコーンポタージュ缶を口に運ぶ姿が視界の隅に入った。金に染めた短髪、黒い革のジャンパー、コーンポタージュ。ゆっくりと愛でるように、彼女は缶を右手で上下動させる。コーンポタージュが熱かったせいかもしれない。その十分程度の時間は鼻の周りに広がる香りとともに、消えることのない対比として頭にこびりつく。  新宿駅の通路をくぐり、ホームへと上がった。あずさ四

旅|太陽の街、青の世界|1

 僕がこれから過ごす二日間を妻は「旅行」と呼び、僕は「遠出」と呼んだ。その二つに大きな違いはない。少なくとも僕はそう思う。明確な違いがあるとすれば、僕と妻が共有する日常との距離感だろうか。この二日間は僕が過ごす日常の延長線上にあり、妻が過ごすそれとは湖のような間が横たわる。その間が言葉に映し出された。家の玄関を開けて外界に飛び出し、一人でそんな思いを巡らせる。  地下鉄に乗って柏へと向かった。南北線。千代田線。人工的な白い光に包まれた車内。窓外には暗闇が広がる。電車に揺られ