年始めに
年が明けた。
GWに植え替えたサンセベリアは新芽がすっかり伸びて新芽とわからないほどになった。ほったらかしも相変わらずだが、たくましく生きている。時は経っているのだなと思う。
スマホのカメラロールを見てみたら、崖や浜や滝、花や木々なども意外と色々撮っていて、あちこちに逃避に出かけていたことがうかがえた。私も振り返ればそれなりに一年分、時は経っている。
2021年は疲れて終わってしまった。一年を表す漢字と言われたら「疲」しか思いつかないくらい、疲れた。今年も疲れる予感がする。前のチームにも半分片足を突っ込んだまま5人で野球をしているような感じの今の職場の状況は、悪化こそすれ良くなる見込みがない。私が考えなくてもいいことを考えているから時間がかかり、やらなくていいことをやっているから疲弊するのだとわかってはいても、ボールが飛んでくれば走って取りに行ってしまうし、ボールの飛んできそうな範囲には気を張っていなければならない。配置が少なかろうと、現実的には、ボールを落とせば非難されるのはプレイヤーであって監督ではないからだ。この心理的負担感がまた疲労を蓄積させるわけだが、まったくどうしたものかと思う。
書いていてなんとなく思ったが、私は仕事そのものよりも非難される恐怖心によって疲れているのだろう。私は私としてできるだけのことをやっている、と、なかなか思えないのは、やっていてもなお、ボールを落としたり送球に失敗したら叩きのめされる、と想像するからで(そして実際他人や社会がそのようである事例の方を多く見聞きする)、その疑念をいつまでも拭えず怯えているわけだ。今年はもう少し上手に休めるようになりたい。大義名分なしに休めるようになればいいが、どうだろうか。
年末年始はというとこれ以上ない休みの大義名分を得られたのでゆっくり休んだ。大掃除は風呂場くらい、買った餅はのし餅一枚、雑煮も具材を減らしたお手軽版。年神様そっちのけで好きなものを好きなように作って食べてひたすら寝る、というお正月だった。引いたおみくじでも休めと言われたし、これでよかったのだと思う。
欲を言えばあと一週間くらい休みがほしいが、仕方ない。もう少し長く休めたら疲れも抜けて活字を読んだり何か書こうという意欲も湧いたりしそうなものだが、もう共通テスト一色で駆け抜けていく1月と決まっているので、今日は仕事に行く。
近所の小さな神社の前を通ったとき、厄年と八方塞がりについて書かれた看板があった。見れば私も該当するものがある。以前は、こうした看板を見ては、ふむふむと思いつつも余計な脅しではないかと感じていたものだが、今回は違った。優しいのだな、と思った。
あらゆることが自己責任とみなされる社会で、社会のせいとも怒れない、誰のせいにもできない、自分のせいと感じてしまいがちな人たちにとっては、自責を手放し、自愛に向かうのを促してくれる一種のおまじないのことばになりうるかもしれない。
休む理由や大義名分として、今年はちょっと使ってみても良いかもしれないと思った。
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