避難として

長らく休んでいると教室に入るのに躊躇いがあるように、今日アプリを開くのにも若干の躊躇いがあった。またしばらく間が空いてしまった。

なんだか独特の気まずさがある。過去を追いかけるのも疲れそうだから、目にとまったものだけ追うことにする。


6月7月は、精神エネルギーをまた使いすぎたように思う。あちこちで怒りが噴出。些細なこと、と普段やり過ごしがちだったことに我慢がならなくなってきた、といったほうが良いかもしれない。そのほかの耳目に触れる毒もあまりに強烈なので、休日はそれらから逃れるために山登りなどに勤しんだこの頃だった。

心身の不調にもさすがになにか対処したほうが良いかもしれないと感じるようになり、動悸があったりなんとなく落ち着かないときは薬を飲むようにした。飲むと少しましになるような気がする。気がする、だけかもしれないが。

そういうわけで、今年の週末はよく山に籠もっている。山に行くと大抵のことは忘れられ、何も入ってこない。山の良いところは、山にいる人はみんな山のことしか考えていないところだ。会う人すれ違う人も(シーズンとはいえ)数えるほどで、会っても挨拶と情報交換程度の会話で、世間話がない。日常を完全に忘れて、登ることや植物のことに集中できる。他の人の心配(にかこつけた、自身が生き延びられるような環境構築)をしなくても大丈夫な時間にほっとする。全員が自立した旅人なのが心地よいのかもしれない。


ひとまず、生存報告的に、今日はここまで。

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