境界線

この時期特有の苦手な質問が一つある。発する人からすればなんてことのない、無邪気で、他愛のない質問なのだろうけれども、平気なふりして答えて後で元気がなくなるので、できれば話題に出てほしくないなと思う。
毎年思うのだが今年もやっぱり目について落ち込んだので書いておこうという気になった。この年になってまだ落ち込んでいることにも重ねて落ち込んでいる。

それは、
「何歳までサンタさんを信じてた?」
というものである。

この質問をする人は、とても幸せな人だ。ゆたかで、幸福で、平和な世界の住人。世の中の子どもたちにはみな愛に溢れる家庭があり、サンタさんに手紙を用意しておくとクリスマスにプレゼントが届けられているものだと信じている。そして目の前の人もそうであったはずだろうと信じて疑わない。
この質問を聞くと、いつも、そうでしたか、あなたはそちらの世界の住人でしたか、という寂しい気分になる。

サンタやケーキやプレゼントではなく、どちらかというとサタンとゲンコと罵詈雑言が出てくる貧乏な家にあっては、そんな平和な世界が信じられないし、そんなの漫画かドラマのお話でしょ、と思ってしまう。何歳までも何も、前提とされている状況がそもそもなかった人にとって、それらは神話的な別世界の話であって、まったくリアルではないのだ。
かといって雑談に事実をそのまま答えても重くなってしまうので、
「いやぁ、うちはサンタさんこなかったからなぁ」
とか、
「クリスマスやらない家だったんだよねぇ」
なんて軽い感じで答えてみるわけだが、そういう無邪気な質問者に限って
(えっ、そんな人いるの、信じられない、なんてかわいそう。。)
的な哀れみと深い同情の眼差しを向けてくるので、却ってうろたえてしまう。
質問者的には、みんなが楽しめる話題を提供したい、とか、昔のわくわくした気持ちを呼び起こしたい、という、純粋に善的な気持ちによる質問だったはずなのに、なんだか気まずい空気になってしまって、このタイミングで、あーやってしまった、この空気どうするよ、と落ち込む。そして気にしてないふりをしながら、私はさておきあなたはどうだったのか、と気を遣って会話の軌道修正をしてやらねばならない。

そのあと家に帰って思い出しては、そんなにまで人に「かわいそう」と思われる子ども時代を思い、切なくなる。嫌だったことやかなしかったことをついでに思い出して元気がなくなる。よそのお宅はお金持ちで幸福なんだなぁ、いいなぁ、と、幸せな世界の住人の子どもを羨み、自分の子ども時代の家庭とのギャップにまた落ち込む。そして、その辺もう少し想像力があるだろうと期待していた相手がそうでもなかったことに、勝手にがっかりする。

今では自分で自分に何かを買えるようになったんだから、ツリーでもケーキでもプレゼントでもシャンメリーでも赤いブーツ入りのお菓子でも何でも買ってそれで慰めればいいではないか、と思う一方、そんなことをしてもあまり意味がないよなとも思ってしまう。別にツリーやプレゼントや特別なものそのものが欲しかったわけではなくて、そのとき欲しかったものは、あったかくてふわふわした、きらきらした、甘くやさしく包み込まれるような、その日は特別なにかが許されるような、そんなクリスマスの明るく楽しい、家での「いいんだよ」の空気なわけだから。そんな空気はどこにもなく、もちろん今もなく、取り戻せるはずもなく、過去の私に与えてあげられはしない。過去の私の満たされなさを、今の私では埋められない。

そういうわけで毎年この時期は元気をなくしている。クリスマスは特別で家族団らん楽しいものですね〜という空気満々のテレビなんかもあまり見たくない。
「ボーナスで何買った?」とか「年末年始はどこで過ごす?」なんてのも類似する質問で避けたい話題だが、きっと平和な人が発する何気ないそういった質問で、この時期は世の中に気づかない間にたくさんの境界線が引かれているのだろう。

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