浄化

先日、私が敬愛するアーティストのライブ配信があったのだが、例のごとくしばらく余韻に浸っている。前にもライブの度に同じようなことを書いているが、今回も書いてしまう。

今年はいろんな感情の波にのまれすぎて、感覚がすっかり麻痺しきってしまい、いつもならあるはずのそわそわやわくわくさえあまり湧いてこないまま当日になった。楽しみは楽しみだったのだが、どこかぶ厚いガラスのようなもので遮られている楽しみであって、それを外から傍観しているような、そんな気分だった。
しかし始まってみると、そのガラスはかち割られ、こころは見事に水びたし。今もあまり収拾がついていない。このようにあてもなく書こうとするほどに、収拾がついていない。

いいことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、やるべきこともまずいことも、夏以降すべてガラスの向こうに見ていたように思う。私のことでありながら、私とは関係のないところで流れているものを眺めるような感じだった。日々に疲れてしまって、自己防衛しなければならない状態だったのだろうと思う。いろんなことが遥か遠い昔のことのようで、思い出そうにも輪郭がぼんやりしていた。

それが、ライブを通して、今年確かに存在した感覚を思い出した。はじめから終わりまで、貫かれる魂のあることばたち。状況に口を塞がれ何も言えなくなったり、どうにもならないことに落ち込んだり、周囲や自身の感情に振り回されたり、ただ生きるだけで何も与えられないことに罪悪感を覚えたり、忍び寄る恐怖やみぞおちを突く不安感、そういうのも全部、確かにそうであって存在していたんだと思い出させる、そういううたたち。
それらをうたいあげ、今年の特殊な鬱屈をすべて浄化していくのであるが、大仏の眼差しとかなしみの燈火に包まれて、あの空間に響く声はまるで声明のようだった。

何度も再生をしながら、あぁ、明日も生きていけると、こころの底から思う。
これこそがうただと思う。詩だと思う。

気休めのことば、仮初の約束、仮置きの予定、そんなものしか普段語れず、とうてい明日を信じられない今の世の中だけれども、それこそをうたうその人のうたは、人に明日を信じさせる。明日、生きていけそうだと思わせる。今日、頑張ろうと思わせる。

以前から、あまりこころをすり減らさないようにと、同僚や友人ややさしい人たちに、言われていたのだった。確かに、そうだった。最近それを忘れていて、ニュースや感情を取り込んではまた勝手に一人で消耗してしまっていたけれども、なんとか持ち直して、残りの令和二年の年末また頑張ろうと思えた。

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