梅干しの話

最近食欲がないのだが、梅の話題をちらほら見聞きするうちに、梅干しで何か食べようかという気になってきた。梅干しの食欲促進起爆力はなかなかにすごい。梅干しは、いつか自分で漬けてみたい気もするが、なんとなく手を出せないものの一つだ。

昔、ばぁちゃん家の近くにも、一本の梅の木があった。その当時私は小さかったから巨木の様に感じていたが、実際のところは多分2、3メートルくらいだったと思う。大きな梅の実が鈴なりになる木だった。家の所有物ではなかったが、地主さんから頼まれて梅をもぎ、ばぁちゃんはそれで毎年梅干しを漬けていた。
白干しに、紫蘇漬けに、カリカリ梅に。赤紫蘇を揉んでいるところの記憶はある。ざるに天日干しされた出来上がりかけの梅干しを、こっそり一粒ふた粒食べてはばれて叱られたのは夏の日だったか。

ばぁちゃんからは、青梅を食べて死んだ子どもの話を毎年必ず聞かされた。あそこの誰それの子どもは、青梅を食べて死んだ、と。私は聞いても誰だかまったく分からなかったが(おそらくは親世代)、同い年くらいの子が死ぬところを想像しては恐ろしい気持ちになった。その教育もあって、私は青梅をかじろうという気にはならなかった。その上、ばぁちゃんは私に梅の実を見せることも触れさせることもしなかった。いつどこで下処理をしていたのか、寝ているときかいないときにやっていたのだろうが、おかげで私は梅の下処理を知らないままに育ってしまった。

実家の親は、梅酒は漬けたが梅干しは作らなかった。梅干しはばぁちゃんの漬けたものを毎年貰っていたのだが、これがなかなかなくならないのだ。貰った梅干しを食べきる前に次の年のが出来上がる感じで、作らなくても余りあるので、作り方を伝授されることもなかった。これは今となっては、とても残念なことだ。一緒に漬けていれば再現のしようもあったが、何をどうやっていたか、結局家には伝わらずに絶えてしまった。

ばぁちゃんが死んでからも、何年か梅干しは残っていた。これは何年の樽、これは何年の壺。たくさんあった。ばぁちゃんの葬式で私が泣かなかったのは、ひとえにばぁちゃんが漬けた梅干しが残っていたからではないかと何となく思う。人が作って遺したものの中にその人が存在するなら、ばぁちゃんが死んでも残っていた梅干しはばぁちゃんの一部で、だから梅干しのあるうちはまだばぁちゃんが死んだ実感がわかなかったのだろう。

ある夏の日、梅ご飯のときに、母は炊きあがりの炊飯器を開け、混ぜ込む前に、「これが最後の梅だよ」と言って、その数粒の白干し梅を見せた。それは何だか、炉前での最後のお別れのようで、そのとき私は、そうか、もう無いのか、おしまいなのか、と思い、そこでやっと、ばぁちゃんはもういないことを理解した。もう新しい梅干しが増えることはない。この最後の梅干しを食べたら、おしまい。いなくなるということは、そういうこと。そういうことだった。

食の進まない日でも食べられた梅ご飯。病み上がりの白がゆの梅干し。車酔いのときの酔止め代わりの梅干し。山登りに持っていった梅干しのおにぎり。思えば梅干しはいつも即効で体のしんどさを薄めてくれた。

今は買って食べている、すっぱさもしょっぱさもあの頃とは違う梅干しだけれども、今日はご飯を炊いて梅ご飯にしようかと思う。
どうせならお香も焚いて、花も供えるか。

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