投げ銭、について

私はわりと気軽に街でパフォーマーに対して投げ銭をし、noteでもサポート機能をよく使う方だが、私はこれにあまり対価性を考えていない。何か得たから、いくらに値すると思ったから、ではなくて、意味合いとしては、なんだろう、一つは自分の心が動いたことに対する表明であり、一つはそれを伝えるための通信費であり、一つは寄附行為であり、一つは借金の返済、というような位置づけだったりする。あとはお賽銭みたいなもの。

通信費というのは、もともとこちらのことばを人に読んでもらうには渡し賃がいるものと思っているということである。切手代のような。押し付け料のような。声掛け料のような。そういうのを払っている感覚。
また、寄附というのも、援助というよりかは、今日同じだけの金額を自分に使うなら、その人に使ってもらったほうが有益だろうと思う、という感覚だ。
借金の返済というのは、私自身がいろいろあって、通りすがりの人からの投げ銭で生きていた時期があったり、昔散々上司に飲み代を奢ってもらったり、学生時代下宿先の大家さんにかなり安く住まわせてもらったり、子どもの頃も親戚からお年玉だのなんだの小遣いを貰ってきたりしたので、そういった世間からの借りに対して、多少ゆとりができたなら返していかねばならないだろうという義務感である。子どももいないし、世間に還元する手段がないと感じているから、余計に。

金額を含め、私からのそれはとても気まぐれで、刹那的で、誰にいくら使ったかなども覚えていないし、払った分何かくれなさいよ、といった考えも毛頭ないので、受けた人にはあまり気負いをもたないでほしいなと思う。(申し訳ないとか恐縮だとか)
ざっくりと、拍手のようなものと思ってもらえたらいいだろうか。

※ちなみに私はコメント欄には書き込みや返信をせず、サポート機能に付随したメッセージを使うことにしている。理由はいろいろあるが、一番は、人に対してそれは真に言いたいことなのか、人に労力や精神力を使わせてまで読ませたい内容なのかを、なるたけ一度自分に問い直してからことばを発したいと思うため。渡し賃が発生したり、送るまでの手数が増えると、そこまでしてもなお言うべきか、というふうに再考時間がとれるので、より慎重になれてよい。普段対面ではことばを安易に使いすぎてしまううえに取り繕いも多いから、その反省も含まれている。

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