つれづれ

職場の人から大量に生のいちじくを頂いた。探しているときはなかなか見つからないのに、諦めた頃に大量に手に入るとはまったく奇妙なことである。
せっかくなのでありがたく頂戴し、今日はせっせと煮たりなんだりしている。わりと完熟で、そのまま食べても甘い。いつもの甘露煮は美味しいが全部がそれでは芸がないので、試しに一部はドライフルーツにすることにした。うまくいくだろうか。

体調は少し良くなったと思っていたらこのところまたぶり返してきていた。またさまざまな分岐を想定しては一人で勝手に吐きそうになっている。色んなことが迫ってきて、心の中の意向を訊ねる前に、すべて「すべき」と「しなければならない」で埋めつくされてしまう。このなかに高濃度で「やりたくない」が含まれていると体調を崩すのだが、やりたくない気持ちをなだめすかして「まぁやるしかないか」というふうに諦めをつかせるためには、それなりの時間が必要だ。
呼吸を整えるための時間。
覚悟を決めるための時間。
処理するための時間。
ふぐをぬか漬けにして毒が分解されるのを待つような。

鍋やオーブンを見守る時間というのは、そういう気持ちの整理をつかせるまでの待ち時間としてとてもよい気がする。深く考えすぎず、完全には忘れすぎず、ほどよく自分を見つめつつ、時間稼ぎができる。手を動かすので、鬱々とした考えにはまり込みすぎない。最近流行りのソロキャンプやサウナなんかも、似たようなものかもしれない。じっくりと煮えていく鍋の様子を眺めていると、自分を取り巻く状況は一切変わっていないにも関わらず、なんとなく、仕方がないか、と思えてくる。
折り合いをつける、というのはきっとこういうことなのだろう。解決はしていないが、受け入れること。歓迎するわけでも反発するわけでもなく、しみ込むのをただ待つ感じ。

この辺でいいかな。あとは火を止めて放って置こう。鍋のいちじくも、この気分も。つついたりいじったりしないほうがいいことも、たぶんある。

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