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ドッペルゲンガー(#1)

 ある日、隣の部屋にドッペルゲンガーが引っ越してきた。
 それは似ている誰かではなく、また親戚や他人の空似でもなくドッペルゲンガーだった。衣服は冬物のセーター、下はジーンズ。余計なものはさっぱりなく、メガネをかけていた。私はコンタクトしか使わないので変な気持ちになった。
 「こんにちは。引っ越してきました。あなたのドッペルゲンガーです」彼女はいった。
 「はあ」私はうつむいて挨拶をした。どういう応対をすれば正解なのかわからなかったからである。「ドッペルゲンガーに会うと不吉なことが起こるって聞きますが」私は尋ねた。
 「どうかしら、でも私はうまくやって行くつもりですよ。素敵な生活にしましょう」彼女はにこやかにいった。

 私のドッペルゲンガーがどうして素敵に生活ができるというのだろう。彼女が引っ越してくる前まで自殺しようかと考えているような女の何を持って素敵にするのだろう。殺したいなら殺せばいい。呪いたければ呪えばいい。私はどこに行っても何もできない女なのだ。

 三ヶ月前に仕事を休職した。辞めたわけではない、でももう戻れないだろう。私は昔から物事が上手く回せないタイプだった。ドジで、物覚えが悪く、大切な用事をよく失念した。プレッシャーがかかるとミスが増えた。誰にでもできると聞いて事務の仕事を始めたが、全然向かなかった。それでも歯を食いしばってやっていたら、食が細くなって痩せてしまった。食べなきゃと思っても、ダメだった。

 狭いアパートから見える世界は、冬の冷たくて広がりのない空だ。私にはもう何もない。予感がない生涯を送ってきたが、線が切れたと思った。物語とリアリティの差、それは予感がないことなのだ。
 このまま仕事に戻れなければ、実家に帰ることになる。両親は典型的な毒親だ。マルチに宗教、依存症、人としてダメなことは大抵そこにある。両親は精神病院を出入りしてそのうち死ぬのだろう。そんな人の近くにいてまともでいられる筈がない。だから逃げてきたのだ。生きることは逃げることだった。
 当然恋人も作った。でも、恋人は逃げ場所にはならなかった。男たちは現実を見ていなかったからだ。

 私は何もかもにがっかりしていた。鏡を見ると、その姿は少し老けて見えた。
 
 安いアパートの扉をノックする音が聞こえる。ドッペルゲンガーだ。
 「ねえ、うどんを作ってみました。食べませんか」
 「いらない」私はいった。
 「でも、夕飯まだでしょう」
 私は断るのが面倒で彼女を部屋に入れた。
 「散らかっているわね」彼女はビニールやゴミを蹴り分けてテーブルに鍋を乗せた。そして、うどんを分けて一方を私に渡した。
 「ねえ、私になる前は何してたの?」私は尋ねてみた。
 「あなたになる前?」
 「うん」
 「私は、今ある記憶しか持ってないですよ。この前ここに越してくるまでは神奈川県で看護の仕事をしていました」
 「看護師さん?」
 「そう。その前は学生」
 「いつから私の姿をしているの?」
 「生まれた時から」

 「生まれた時から、私はあなたのドッペルゲンガーなんだって思って生きてきました。ねえ、誰かの影として生きるのってどんな気持ちかわかる?なんていうのかしら、自分がただのスペアに思えてくるのです。おまけのような存在。だから私は一生懸命に生きました。どこかであなたに出会える気がしたからです。私の元の姿に出会えば、何か素敵なことが起こる予感があったのです」 

 私は苦笑した。「ねえ、私なんて拒食症で死ぬか自殺して死ぬかしかないような人間だよ。私と会って素敵なことある訳がないよ」

 食事を終えると、ドッペルゲンガーは隣の部屋に去った。

 続く

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