アートライティング・フォー・(しかし、それらもまた風景である。)〈Art writing for ⅷ-ews with a lot of views〉#1 小泉夜雨
本稿は笠松咲樹作「(しかし、それらもまた風景である。)」のアートライティング記事です。私はアートライティングを〈芸術記述術/記述芸術術〉と捉え、本稿を書いています。本稿を通して(しかし、それらもまた風景である。)の面白さが伝わればと考えています。コメント等で解釈などのご指摘あれば記事に追加してゆこうと考えています。
小泉夜雨
和歌
かぢまくら〈船の中で寝ること、船旅〉
小泉夜雨 概要
案内人は訪問者に手紙で金沢八景に来るように依頼します。待ち合わせ場所は深夜バスの待合室小泉夜雨、天候は雨です。訪問者は事情を知らされぬまま待合室にきました。この夜の雨に浮かぶ奇妙な三角形の待合室が作者が設計し、仕掛けた謎(見立ての手段)です。訪問者は案内人の手を借りてこれら架空の建築物、建造物から風景を再発見、再構成して行きます。建造物は風景を見出すための装置でもあります。
作者(案内人)は風景に対して奇妙な好みを見せています。以下案内人の独白を抜粋しましょう。
この場面で案内人は顔を覆い隠します。片目で風景を見る場面は幾つか登場するのですが、案内人は何かを見出そうとしているかのようです。
また、この章には伏線も張られています。
「雨の本当の姿の一つ」これはとても興味深いですね。
またこの抜粋は本作を通した一つのメッセージであり着地点といえるでしょう。つまり本作を通して様々なものや風景への見方や手法を得てほしいという願いです。
小泉夜雨は一階建ての三角柱の形をしたバスの待合室です。ガラス張りの建物で内部に鏡でできたラインが引かれていて、それも平行四辺形です。内部には喫煙室とトイレが設置されています。内部にはスロープ(坂)があります。スロープは鏡と平行に作られています。
雨天の夜、待合室の内部でバスを待つと、入ってくるバスのライトに照らされ、雨が涙のように見立てられ写ります。(それが鏡に映し出され涙のように錯覚できるのです)雨と涙をうたった歌と浮世絵双方から得られるイメージと重なります。
ガラス、雨、涙といった異なった物体が透明性の中で、光を元に交差し、雨が涙に見立てられ立ち現れます。雨という事象が視覚的フレーミングによって涙に見立てられています。これは夜間、雨の日でないと出来ない仕掛けです。
待合室は船の船内にも見立てられます。
訪問者が建物に入り、そこにバスが入って来て、雨の姿が現れる、そうような一通りのトリック、この本で発見される〈風景を再発見し再構築する手段〉の一種が提示され、案内人による答え合わせが登場します。
形状について
スロープ 鏡 喫煙室
スロープと鏡は平行に造られていて、目を映し出せるに設計されています。
これは少し読み返さなければなりませんでしたが、この建物の喫煙室の天井は確かにガラス張りでできていて、煙が空間に溶けていて眺められます。ここで気体(煙)が液体に溶けて行くような仕掛けがあるということです。粒である雨が線で描かれるように物質化すると同時に、気体も渦という形で可視化されています。
詩 併存する雨
この詩は雨、気象の名と雨粒そのもの、双方を示す言葉としての「雨」の独白です。一つの名称が二つの状況を示す、そういう曖昧な状況を本作では何度も提示しています。(天井と床とか)
本作で重要となっている二重性、多義性がここで示されています。現象と物質です。様々な表象の予感があります。
雨に代表される多様な側面を導入として、様々なモノが風景となる手法を巡る小旅行が予感されています。
詩 弁証する光
ここでの光は、バスの光です。案内人と訪問者がこのトリックめいた仕掛けの主体、「光」が独白します。光は悪戯っぽい仕掛けを訪問者に仕掛けました。
0〜7は意識のフレーミングの過程が描かれています。
テーマ 透明性と反射性
小泉夜雨における作品コンセプトの中心は「透明性と反射性」だといえるでしょう。透明なモノも反射するモノも同じくオブジェクトとしては特殊です。透明であることも反射性を持つことも、そのモノ自体の正確な表象がなく、微かなテクスチャ〈質〉の差があるだけなのです。雨、ガラス、涙は色彩を持たないという点では区別がつきません。透明なオブジェクトです。鏡もまた特殊です。反射するモノ、投影するものの色はありますが、それは鏡の色彩ではありません。そして、半透明なモノとして、曇りガラス、煙があります。
透明なガラスが視界を覆っている時、私達の視野はどこに焦点が合っているのか考えると二点考えられます。ガラスの向こうの背景とガラスの表面です。
今、私は夕方のスターバックでこれを書いているのですが、窓ガラスを見て見えるのは夜に輝く信号機です。ガラスが反射する店内を見ることはできません。反射して見える店内を見ると、背景は見れません。
しかし、ガラスがあり、透明性があるということは背景と反射するモノとを混ぜた表象を作り上げることができるということです。二つは騙し絵(ルビンの壺)のように一方を認識している時一方が認識できない類のものではなく、二者が同時にありながら分離しているのではないでしょうか。
〈透明な遮蔽物といえばパーテーションです。私達はコロナ以降の風景としてアクリルでできたパーテーションについて考えなければなりません。人と人と隔てるモノです、何かしらデザインされなければなりません。今は、急な展開に仕方なく存在しているパーテーションですが、少しずつ考えられて行ければと思います。〉
透明なモノには企てがあります。そこには通常のひらけた空間では考えられないような仕掛けができます。奥行きが作り出されると共に背景化するところに透明性の不思議な性質があります。
光は透明と反射を行き来する媒体ですね。
透明性と反射性のある風景の類型
これはフランスの詩人、アポリネールの詩「雨が降る」です。カリグラムといわれる手法で象形的にフォントが配置されています。本作では雨を顕在化させるために、ガラス、夜間の闇、バスのライトを使い鏡でそれを涙に見立てています。
本編に登場する「パリの通り、雨」でもわかるように西洋では雨を線として描く文化はなかったようです。線として感じ、それを描ける文化、浮世絵があることで造作もなく雨を線として私達は感じることができますがそれは特殊な感覚だということです。
またこの画面はソール・ライターの写真作品にも似ています。
1950年代はカラーフィルムの発展によりさまざまな手法が試された時代でした。
例えば、シド・ミードは映画「ブレード・ランナー」で雨で反射する都市の明かりを利用したイラストを提示し、メイン・イメージにしています。
2015年に公開された映画「キャロル」では車の窓ごしに主人公たちが映し出されます。これはソール・ライターなどが活躍した1950年代の流行を反映していると共に、主人公二人の同性愛者に向けられた冷たい壁のようなもののメタファーでしょうか?ガラス越しに見える彼女達は美しく絵画的で、ファッショナブルです。
ガラス越しに撮影することは幾つかのメリットがあるようです。光が全体的に明るくなるのです。また手前にナメるモノがあることによって奥行きが生まれます。
結び
日常的な風景に、透明なものが加わるという工夫で風景は変わるようです。また、このように透明性(雨、ガラス)と反射性(鏡)は映像や写真作品では多用されている手段です。私達がそれに気付き新しい風景を見出すかどうかは発想力の問題ということになります。
小泉夜雨はわかりやす事例で次章以降の手法を予感させてくれます。様々な作例を見て風景をフレーミングしてリフレーミングできれば、私達は新しい風景感を持つことができるでしょう。
空間という面と接する時間について考えるなら、時とは透明なレイヤーのように、現在、過去、未来を見るようです。現前性の内には透明な回想としての非現前性があるのではないでしょうか。この挟撃的な面白みは次回以降現れてくると思います。
#2 へ続く
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