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遠くへ視線、チカクとシカク〈風景写実試論4〉

 その駅はとても不穏な電柱が立っていた。 

 文章の書き過ぎで疲れていませんか?御機嫌麗しゅう、松尾です。

 あなたは文章を書く時、遠くから書きますか?近くから書きますか?勿論、どちらも可能でしょう。しかし、クローズアップから拡大される視界と、地平線から手前に来るシーンとではだいぶ印象が変わってきます。寄りから引くか、引きから寄るか、秩序立てて書いていますか?

 仮に、あなたが小説を書いているとしたら、この技術を直感的に使っていなければ風景描写に困っている筈です。風景描写とは、映画で云う所のカメラマンの仕事であり、美術の仕事であります。本稿では写実の手順、人称と〈語り手〉の権限、その拡張と捨象に付いて確かめて行きたいと思います。

 風景描写試論では、何処のシーンと云うテーマはありません。人物をどう描くか、と云う文芸のメインもありません。あなたが小説を思う存分に描く、舞台を充分に書ける、と云う事が主題になっています。

1、例

 小説の文章には必ず〈語り手〉と云うものがあります。三人称である時もあれば、一人称、二人称の場合もあるでしょう。まず考えるべきは、絵柄の見栄えと、物語上の効果です。

 例えば、深い森を長時間かけて登り、急に拓けた平地に人物が辿り着いたとき、その平地を如何に描くべきなのでしょうか?この例は「ノルウェイの森」に登場します。或いは、トンネルを抜けた時、雪国を如何に描くべきでしょう?

 ファンタジー的システムを持つ小説《つまり、異世界と現世の境界線があるモノ》にはこの展開が必ずあり、これを得意としているか不得手としているかで向き合い方は異なると思います。

 「ノルウェイの森」は一人称小説ですが、多くの方は「僕」と云う語り手に騙されています。「僕」こと、ワタナベは〈語り手〉と〈時の主役〉と二人いるからです。〈語り手〉は空間的にも時間的にも自由ですから、時を行き来しています。〈時の主役〉とは一人称のモノローグを云うか台詞を云う権利しかありません〈思う/語る〉

 一人称の語り手にあらゆる権限を渡してしまう事は、或る意味、お気楽な開き直りですが、構造物としての小説に矛盾を与えてしまいます。《そのクロマニヨン人は、この建築物は上空から見ると六角形ではないか?と思った》《航空映像を想起出来るのは近代以降の人物です》

 語り手、設定と、設定が認識出来る事象に矛盾が生じても、進行出来る様に〈語り手〉が、その瞬間の一人称〈私/僕〉より超越的認識を持てる、と云うシステムが一人称小説には求められる、と云う事が分かるかと思います。《だとしたら最初から三人称で書く効果を考えるのも宜しいでしょう》

 〈語り手〉は物語の先を読んだり、その時の主人公の心情を察したりして、カメラの遠近感を調整出来るカメラマンになる事が出来ます。

 然し、私達は映画の作法を学んでいません。視界をどう操れば効果的なのかわからないのです。この、遠くから、近くから、と云う決定は、最終的には必然的な判断になる必要があります。書き手が、脚本家であれば、カメラの効果など文面に書く必要はありません。と云うか、カメラマンの判断を先んじて書く事は脚本家の権限にはないのです。音響も美術も同じです。

 ですが、小説を書いているのであれば、あなたは監督で脚本家でカメラマンで美術でなければならないのです。

 風景描写とは、或る種、物体の演出でありますから、客観的な情報でなければならない訳ではありません。ですが、事実的な情報を読者に与える必要はあります。

2、例題 収縮型、拡散型など

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この風景に意味はありません。然し、物語の一場面として描いてみましょう。

回答例

幾つかの乗り継ぎをすると、F市に到達した。青い空に薄く伸ばされた雲が、夏のそれらしくのんびりと垂れ下がり、山々は緑が生茂る。間も無く日が暮れる時刻だが辺りは明るい。国道の陸橋が駅から見えて、駅の駐車場には三台の車が止まっている。空気を吸い込むと、都会のそれとは違った透明な木々の匂いが肺を満たした。電車が行ってしまうと辺りに物の気配は無く、ただ、遠くで知らない鳥が鳴いて、ジリジリと光が僕の肌を焼いた。ホームに立った僕は荷物を背負い、改札口へ向かった。

 物語の冒頭を前提にして書きました。実際には写真に映らないモノ、気配、音、人物の気配、匂い、そう云うものが風景になり得ますね。文末の時制が過去形/過去完了と進行形を使っています。これが「〜だった」「〜だ」になると、上手く視線が動かせません。《敢えて、過去形のみで描く前例も御座います→青空文庫、芥川龍之介『玄鶴山房』

 時制については過去に触れているので省きます。

 これで完成と云う訳ではありません。ト書きのように場面に置いておくだけです。これから謎の街に行くのでしょうか…大きな冒険をするのでしょうか…恋をするのでしょうか…人を殺めるのでしょうか?そこらへん作者の主観は後々にテクスチュアとして加えましょう。

 遠くから近くへ、とカメラが寄る効果は冒頭に使いやすいです。遠くから近くへ、或いは外から内へ、は収縮型、逆は拡散、拡張型と表現できます。

収縮的に物事を描くと、主人公の視点が文末に来ます。これに、類似するのが平行移動などですが、最後に主人公の視点があるので興味の持続を狙えます。

一方、拡散や拡張は主人公視点から離れて行き、全体像を文末に置きます。

これら視点の秩序を守らない手段を、〈意識の流れ〉と云います。これには人物造形が関わってきますが、主人公の視点に合わせて描写して行き、随時主観的な情報を加えて行けます。前衛定期な手段で、誤読を招くので多用はしたくない手段ですね。効果を考えずに挑むのは避けましょう。


問題

物語の終わりに置くとどうなるでしょう?

3、シーンの物語的役割 順番

 深い森を抜けたら其処は拓けた平野だった…

 さて、この平野は作中でどれだけ重要になるシーンなのでしょう?主人公が取り立てて立ち回らず、注意も払わない、長時間いる訳でもないのであれば、さっさと次を書かなければなりません。ただ、何年経っても忘れられないものとして最初に語られる場所であるとしたら、別の手段を使って、先回りしたり、歌のサビの様に何度か登場して効果を求められるでしょう。重要な舞台であります。「起」でもフリで使いたいし、「転」でもう一度使いたい、なんて悩ましい悩みでしょう。これを書くために、〈僕〉は分離しなければなりません。主人公である〈僕〉は心象を述べますが、〈語り手〉である〈僕〉は包括的な事も客観的な事も緻密な事も俯瞰的な事も全て述べる事が出来るのです。但し、一人称小説においては、特権的〈語り手〉は隠れていなければならないため、この森について、〈後にわかるが…〉的な口上で述べるか、〈予め調べていた事だが…〉と述べるかしなければ超越的な語りは出来ません。《つまり、主観的時間の制約を或る程度守るのです》

 さて、複雑になってきました。

 この様な複雑な手段が現代の小説には多々出現します。重要なのは順番と効果です。

 仮に、二つしかシーンがない、短編小説を書きたいのであれば、最初に収縮型で描き、人物を動かせば、自然と次のシーンへ行き、そのシーン2の拡散はエンディングに充分でしょう。

 たちが悪いのは終わりが分からない書き手で、描写において終わりが分からないと、語り方が定まりません。

4、一人称小説における語り手

 一人称小説が好きだから、心象風景が得意だから、と云う理由から一人称小説の手法を選ぶ方は、伺っていると多いです。それが良い時もあれば悪い時もあるでしょう。

 語り手である〈僕〉は、主人公である〈僕〉の体力や状況とは関係なく、冷静に物事を写実出来ます。主人公〈僕〉が行動出来る範囲を、主に描写して行きますが、〈語り手〉は当事者とは明らかに異なる客観性を持っていて、細かい知識を調べ、精査して、読者に伝える特権があります。《ですから、語り手がどれほどの認識が可能であるのか、と云う事は先んじて設定される事が好ましいと思います。》これは人物造形の領域です。

 ですが、時間的制約や空間的な制約を越えた事象を〈語り手〉である僕が述べると語り手と主人公が解離する為、伝聞によるエピソードや、後にわかってくるエピソード、フラッシュバックなどの手段で表現する手間が発生します。《無論、三人称でも多用されます》一人称小説や二人称小説の語り手は設定上、書き手と等しいかそれ以上の知識を有しているか、或いは持ち得る事を前提にしたいですね。カメラに制約を与えると動きが制限されます。私達は知識でものを見て、文章でそれを想起出来るのです。大抵の場合、シーンと人物と語りと云うのは同時に現れ、後からの修正が効かないので、一人称で書き始めたら突っ走って行きますが、〈語り手〉の制約は人物造形が進むにつれ明瞭になるので、推敲して行く過程でチェックしてみて下さい。

 逆に、一人称の〈語り手〉に認識上の障害があるとしたら《物理的な、もしくは身体的精神的な》トリックの様な扱いになります。《例、映画『ジョーカー』の語り手》これはこれで味がいいですね。

5、美術、カメラ、監督の様に

 まずはロケハンからです。その舞台を写真に収めて、この舞台が如何にこのシーンに相応しいかプレゼンしましょう。これが装置としての舞台です。それを監督として、指示します。見えなくて良いものを省き、見えて欲しいものをクローズアップします。俳優〈主人公たち〉にも聞いてみましょう。最後にカメラマン〈書き手〉が美しくフィニッシュします。

 ふらりと立ち寄ったバッティングセンターに一人の目を引く人がいました。藍色のコートを着た女性で、一人左打席に立ち一心にバットを振るっています。藍色のコートに藍色のスカート、バットを振り抜くとそれは可憐に靡きました。打ち出す弾道はホームランとは云えませんが見事で、私は思わず見惚れました。一瞬、彼女は視線を注いだ私を見て、再びボールに集中しました。私は鉄筋バットが軟球を捉える心地よい音を背にして、その場を去りました。
 《街は直線に溢れ、私を迷わせます。丸で、繰り返されるタイムトラベルの様に、悲しみや妄念が混線して弾けます、育てる細部を堪えるのです、飲まれる背部を踏み越えながら》そして、当ても無く歩いていたと思います。〈引用『溺れる鯨と猿の座礁』1より〉

 バッティングセンターに女性が居て、其処から主人公が立ち去る場面です。何故バッティングセンターに女性がいるのか、それは後に分かります。主人公が其処に立ち寄ったのもそれ以前に書いています。つまり、此処が物語のトンネルです。一人の人物を語り手が描いていますが、ここでは拡散的に書いています。一人称色が強い訳ですが、馬の主人公、紺色のコートの女性が見付かれば良かったので、周辺を描いていません。

 描写の面倒な点は視点主人公や視線が動く点です。

 人称は現在一人称ですね。丁寧語を使っています。〈語り手の性格?〉ですが、主人公ではなく、物語全体が回想であります。語り手は思う存分に写実出来ます。女性が居て、彼女が魅力的で活気があり、対して、周辺は粗野で即物的です。それだけ伝われば、次の動作や事件に繋げられます。逆に云えば、本作では大したきっかけなどなくて、出来事も突発的で現実から離れています。

 そうですね、全体の効果として、バッティングセンターに重きは置かれていません。ですが、装置としては此処でなければなりません。難しいところですね。作品が幻想官能小説と題しているので、現実から官能と云うファンタジーを繋げるブリッジは仰々しく構える訳には行きません。

 手順は分かりますが、実際風景には多大な労力が必要です。引用は、恥ずかしながら私が書いたものを使います。


真糸はペダルを漕いだ。白いシャツに膝丈ほどのスカートの学生服だ。全身から汗が吹き出し、髪の毛は肌に絡まり、体中の産毛が汗と衣類で窒息しそうで痒い。空は狂騒の青で、醜く汚染されていて直視できない程の晴天だ。少女は乗っている自転車が出来るだけ早く走る様望んだ。然し、滲んだ汗は脇や股間へ溜まり、下着は重くなり食い込んでいる。彼女は眼鏡を度入りのサングラスにしようか真剣に考えた。《『限りない攣を束ねて』3−1より》

 乗り物に乗っている、もしくは移動している人物にとっての背景は動いている人物のパントマイムに近いのですが、人物の感覚を入れ込む事で成立させます。横に動いてくれる背景があれば良いのですが、動き続ける背景や風景と云うモノの上に人物が乗ると描写が複雑になるので、此処では避けています。

 足元から、体を這い、頭上〈気象条件や季節〉に行き、俯瞰で見る、と云う手順です。少女が自転車で颯爽と駆け抜けているだけなのですが、青空の下を健康的な少女が走り抜けるだけでは収まらないので、人物の感覚が入り込んでいます。これは三人称小説の文章です。この心象が入り込んで来る部分は悩ましい所で、写実も人物を通して行っている私の傾向が見えます。

 感覚を描写に加えると云うのは、実に文独特の表現ですね。でも、主観に寄り過ぎるとぼやけるので気を付けましょう。

 三人称でも、主観を導入出来ますし、一人称でも客観性は保てます。写実上の欠点は無意識的なものであるので、他人に発見してもらうのが早いかも知れません。人に見せる事が出来ない場合、忘れて読む、しかないですね〜

6、基本的には主人公が見えるものを

 何のために主人公を立てるのかと云えば、《物語的な意味合いを汲むと》それは読者に指針を与えるためです。《実際は描きたい人物が居たとして、便宜的にそう考える事にいたしましょう》「雑木林が見えた」と云えば、それは「僕は〜を見た」〈彼は〜をみた〉と云う認識になり、且つ、読者の主体的共感を運ぶ事が出来ます。態々、遠くの、主人公には見えないかも知れないものを描くのであれば、それは時間的逆行と云う技術で、読者に先行して伝える必要がある、と云う必然性を孕みます。

 絶対に主人公に見えないものが、写実上にポンと置かれたら、読者が混乱するのが分かりますよね?それの効果が求められる時に出すのは宜しいですが、意図ぜず出てしまう事は回避しましょう。

 物理的な制約と効果を駆使すれば、少なくとも映像にできる程度には〈理論的には〉写実出来る筈です。問題は、飽く迄、順番と云う事です。

結び

 ここでは、指針として、語り手や其処で描かれる人物、シーンの場所〈起承転結〉を当てにして、描写の手段を探しました。結構、ありていなモノで奇抜な表現手段は避けたのですが、皆様が何か思いつかれたら教えて下さい。

 物の有様を並べる訳ですから、最初から大袈裟な事は考えないで下さい。全体が出来上がってきたら、重要な場面に効果を与えて行きましょう。カメラワークのイメージで、引きや寄りを使い分け、出来れば読者の好奇心を誘いたい所ですね。

 最後に立派なモノを作ろうと云う発想が必要なのかどうか、と云う事を問い直して下さい。そもそも、広大な作品を書きたくないのであれば、巨大な舞台設定や風景を導入せず、まずは、自分が書きたいシーンや、やり取り、出来事や人物を書き、その周辺の短編を書いてみて下さい。案外巨大で印象的なシーンや風景、美しい描写など不必要かも知れません。

 また、風景は人物に付随する場合が多いので、改めて人物造形を検討すると風景が仕上がってくるかも知れません。《主に、通常は人物から仕上げて行くモノですが》

 あ〜今回は疲れた。疲れました。

 長編小説とか、視点を作る独自のシステムとその構築の尺、がありこれを説明しようかと思ったのですが、別に長編を誰しもが書く訳ではないので避けました。と云うか、寧ろ、それは人物造形に等しいかも知れません。風景を見ていると人物が見えてくるって不思議な事ですが物語では、まあ、当然ですよね。

 写実とは常に盲点を持つ手段です。タイトルの「シカク」は「視覚/死角」のダブルミーニングです。一人称なら主人公とその解離が盲点です。勿論、三人称では人物の心理が描きづらくなります。

 全部の表現手段を入れるとかは無理です。ですから、風景描写の一歩目として使っていただけたら幸いです。

問題

1、とんでもないもの、と云うものがあり《物語とはまさにとんでもないものなのですが》それをどうしても描かなければならず、それは突拍子もないものにしなければならない、と云う場合、それを写実する事は出来るのか?

2、人物を設定して、公園に行き、意識の流れの手法を用いいて公園を写実してみましょう。


 

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