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アートライティング・フォー・(しかし、それらもまた風景である。)〈Art writing for ⅷ-ews with a lot of views〉#3 瀬戸秋月
イントロダクション
前回はこちら#2
本稿は笠松咲樹さん作「(しかし、それらもまた風景である。)」のアートライティング記事です。私はアートライティングを〈芸術記述術/記述芸術術〉と捉え、本稿を書いています。本稿を通して(しかし、それらもまた風景である。)の面白さが伝わればと考えています。コメント等で解釈などのご指摘あれば記事に追加してゆこうと考えています。
訪問者と案内人は洲崎晴嵐の船着場から船に乗ります。このプロジェクトは、移ろいゆく風景のなかに、見立てという日本独自の風景の見方を挿入することで再構成することを提案し、また同時に、見立てが持つ、モチーフを、それ固有と思われていたスケールや機能から解き放つ再解釈可能性について言及するものであります。
このプロジェクトは、移ろいゆく風景のなかに、見立てという日本独自の風景の見方を挿入することで再構成することを提案し、また同時に、見立てが持つ、モチーフを、それ固有と思われていたスケールや機能から解き放つ再解釈可能性について言及するものであります。
移ろいゆく風景のなかに「見立て」を重ねてみる。それは日本にもともとあった独自の風景の見方だ。 浮世絵 和歌 漢詩を分析し、風景の描かれ方を探る。すっかり変わった今の風景に少しだけ手を加えて、風景を再構成する。固有の寸法や機能から モチーフを自由に解き放つ。風景の再解釈可能性について考える。無数のとりとめのない風景もまた風景になりうると思うのだ。訪れる人々が“風景の見立て方”を獲得していくことを期待し、金沢八景をめぐる10㎞のルートを設定した。8つの視点場を設定し、その先の現在の風景を改変した。8点を順を追って巡るにつれて読み解きのためのガイドが徐々に薄れる。 このグラデーションが 無数のふとした風景もまた「風景」であることを、訪問者に示唆するものであってほしい。
瀬戸秋月 概要
短歌 浮世絵
よるなみの瀬戸の秋風小夜ふけて千里の沖にすめる月かげ
(内海の穏やかな瀬戸を秋風が通る
波は静かに立ち 秋の夜が更けていく
遠くの沖に月の光が清らかなことだ)
![](https://assets.st-note.com/img/1668943194864-EmsuH6rI4F.png?width=1200)
概要
二人は、洲崎晴嵐のホテルの下にある休憩所から船に乗ります。
![](https://assets.st-note.com/img/1668941722504-YGVq9cH8h3.jpg)
南へ湾を渡ったところに目的地である船着場はあります。
船着場はシーサイドラインの高架下にあります。四角形で囲まれた箱状の建物です。
空を仰ぐと空の青が薄く見えるほど強い青のシーサイドラインの高架が横切って見える。
前方に目を戻すと、とってつけたような船着場の箱が護岸にめり込んでくっついているのが遠くに見えてきた。
![](https://assets.st-note.com/img/1668943390119-yWoDAqIQeN.png)
正面から見えるのは箱の内部のようです。内部は浮世絵を模した模型のような内装です。内部には船が着けるスペースがあります。
箱が湾を取り囲む護岸に貫通するようにあります。箱の上面は護岸の上の高さと揃っていて、下面は水面とほぼ揃っています。
箱の正面は門型のフレームを残して四角くくり抜かれています。
![](https://assets.st-note.com/img/1668945033867-yafvRMaxOh.png)
カキワリの舞台を箱で取り囲んだものが湾の内部に建てられている、と書くとわかりやすいかもしれません。とても奇妙な印象です。
山が見えます。山の向こうに月が見えます。月のとなりから橋が伸びています。内部の中央には椅子が一脚置かれています。
そして、照明が手前の天井にぶら下がっています。
如何にも瀬戸秋月の浮世絵をカキワリにした舞台に、訪問者は「キッチュ」といいます。「ちょっと低俗では」という意味です。
![](https://assets.st-note.com/img/1668983618095-xaV68sQ6F0.png?width=1200)
内部には浮世絵にはない仕掛けがあります。椅子と照明です。これはどのような仕組みなのでしょう?
訪問者も二つが邪魔な要素だと気付きました。
背後には白い月明かりが浮いています。#1からわかる通り、この作品内での時間と天候は最適条件で提示されます。
船を待つためにの椅子はあそこにあって仕方がないのかもしれないが、照明をあんなに目立つところに吊るしたのは、周到さに欠けていたのか。それとも誰かほかの人の手によるものなのか。
船は船着場に到着し、二人は降ります。
船着場から見える風景
バランスをとりながら立ち上がり、錆びた船べりを跨いで船着場の門型の枠をくぐり箱の中におりたつ。
すぐ右手には白く細い階段がある。浮世絵には登場しない、護岸へ登るその階段は船着場のフレームの裏側に隠されていて、船の上からでは気づかなかった。
椅子、照明に続き、浮世絵に登場しない階段が登場しました。これは通路らしく、階段を登るとシーサイドラインの高架下に出ることができるものです。
訪問者は促され、椅子に座ります。
そこからは下記のような風景が見えます。言葉では認識しづらいので図表を先にご覧ください。
![](https://assets.st-note.com/img/1668983925939-aYjzwkZ0Y3.png?width=1200)
山と橋と月を背にして座ると、
…(中略)
入江の遠くにホテルを纏った小山があった。
幹線道路造成のために削り取られたのであろういびつな山の形が、ホテルの外形によって補完された。
洲崎晴嵐で登場したホテルが登場しより広い視野で山の風景になっています。休憩所の屋根が視線で並び橋になっています。
今まで乗っていた船がすーっと離れ、そして景の一つになった。
月が「器」に収まっているのがわかるでしょうか?
見える風景は様々で雑多な建物のコラージュのようで、月明かりは照明と入れ替わり、今まで乗っていた船が風景に変わる、とても象徴的な場面です。
案内人は珍しく熱く訴えています。
ところで、あのマンションはどっちなのでしょう。この厳つい護岸は、…カキワリ未満ですらないと言い切れるでしょうか。
ほんとうに景にならないと言えるのでしょうか。どうして断言できるでしょうか。
それは、こうして五感を引っさげて歩くわたしたち次第に、どうにかならないものでしょうか。
訪問者と案内人は階段をのぼり船着場をあとにします。
通信する照明 返答する月
照明と月が一方通行な応答を寄せている光景がうたわれています。二人はどこか現世であっていない雰囲気を持っています。すれ違っています。でも似ていて重ねられていて隣り合っています。どこか切ない通信です。それは作者の心情でもあるのかも知れません。
照明 またいつか、お話しできますか。お会いできたらどんなふうかしら。
月 ええきっと。
幸せでしょうね、まるふたつ、となりあって並んで、CQ・・・。
テーマ 二つの瀬戸秋月
カキワリとしての船着場(瀬戸秋月)はそこからもう一つの(瀬戸秋月)が眺められるポイントでした。このカキワリの船着場はシミュラークルといえるでしょう。「シミュラークル」はフランス現代思想に見られた概念で、用いた各々の哲学者によって意味は異なりますが、「虚像」「イメージ」「模造品」を意味する言葉です。
シミュラークル
simukacre(仏)
中略
以上のようなボードリヤールの主張に従えば、今日の消費社会における諸事情は、プラトン的な「オリジナル」と「コピー」(「本物」と「偽物」)の対立において存在しているのではなく、ただその「模像(シミュラークル)」の循環のみによって存在していることになる。
ここでは、カキワリという器に内包された照明が月と重なり、風景に再度現れることによって、それまでカキワリ未満であり景にならなかったもの、照明と船が、もう一つの瀬戸秋月に収められるのです。ですが、背後にあるもう一つの瀬戸秋月はシミュラークルでありながら、洲崎晴嵐でありました。いくつもの企てが、折り重なった風景というものがここには見えているのです。
これは度々述べられる(しかし、それらもまた風景である。)のメインテーマであります。
船着場が瀬戸秋月を模したものでなければ、そこから振り返った風景が瀬戸秋月を再構築したものであることはわからないでしょう。これは不可逆な手順であり、同一的な手段ではないといえそうです。
何故なら、訪問者にとって、船着場に至る以前に、振り返った風景としての瀬戸秋月は既知のものとしてありました、であるにも関わらず、振り返った風景としての瀬戸秋月は未知でした。自ら歩いてきたにも関わらず、読者である私達も同じく、既知であるのに未知でした。
この先行するものと追いかけるものとの出会い、邂逅を「過去を弔い/未来に遺言する」感覚と私は感じています。
#4へ続く
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