日常と詩、写真について語ること
やあ、久しぶり。
世の中は写真にあふれている。人が日常を切り出して共有する時、写真は手軽なエッセンスだ。それを可能にしているのはスマホだろう。私達は特に考えることなく日常を撮影し、それを選択的にSNSにアップする。だからという訳ではないが、潜在的には誰もが写真について語れる筈だ。けれど、同時に写真について殆どの人は考えていないとも云える。何故なら写真家の名前を殆ど知らないからだ。技術の進歩とそこに関わってきた作家について知らない、けれど技術の恩恵は受けているのだ。
例えばユージン・スミスという写真家がいる。日本にも縁があり、映画も公開された。比較的著名な写真家だ。けれどスミスのことを考えて写真を撮る人は少ないだろう。あんなツルツルの美しいタッチでゴテっとしたモチーフを撮ったら或る種衝撃的だ。
文章と写真と云うのは或る意味対局にある文化だ。文章は主観の中浮遊するような表現で、客観的な情報の共有が難しい。主観はいくらでも述べられるがそれを共有するのが難しい。一方、写真は主観的な要素は一見なく(あくまで一見)客観的な情報にあふれている。主張したいことがなくともシャッターを切れば撮影はできる。誰にでもできて、有り触れたものだ。故に、写真の良し悪しに現れる様々な意匠や工夫、機材の問題などに触れることは少ない。
そこで思ったのだが、言葉が有り触れて「詩など誰でも書ける」と云うのと、写真があふれ出して「写真なんて誰にでも撮れる」と云うのとは実際ある程度にかよった感覚の劣化なのではないか。
まあ、いい。簡単だと云うなら簡単になれば良いのだ。実際、テクノロジーは様々なことを簡単にしてくれる。
街を歩き、スナップを撮ると、実に思い通りに行かない。有名無名な写真家が撮った有り触れたスナップが如何に奇跡的な瞬間を様々な工夫で捉えているのかがわかる。ソール・ライターの撮る街の光景は遠い。様々な写真家がそれぞれの工夫で撮影するスナップを今は遠く感じる。
気楽なタッチで日常を描く詩が書ければ、苦労はしないのだ。
日常は何気なく流れるが、それを捉えることはとても難しい。
私は相変わらず雨の日にスナップを撮っている。新しいレンズはいい感じだ。
君の日常もいつか撮れるといいと思う。
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