颶vol.2 「箴言の不在」を読んで
箴言(シンゲン)とはアフォリズムのことである。有名なものは芥川龍之介の「侏儒の言葉」などである。
この評論ではSNSでの短いコメントと、山本夏彦、エリック・ホッファー、モンテーニュなどを比較している。
確かに、アフォリズムと比較するとX(旧Twitter)などのポストには何か根本的な違いがあるように思える。私はアフォリズム詩を多く好んで読む。ルネ・シャールなどをよく読んだ。そこには決定的な違いがある。それは純粋詩のようなものとの根本的な違いではないだろうか?伊藤亜紗著『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』などにも登場する。純粋詩というものは、事実を最短の形式で描く詩である。
このアフォリズムには物事の行為、体験の普遍的な一回性を述べている。如何に繰り返された体験、たとえば毎日の通勤であっても、それは今という瞬間にとっては一回の出来事であるということだ。この一回性という問題は現代的な思想の中では重要になるのだがそれは別の機会に述べることにしよう。
かくも純粋詩というのは面白く、アフォリズムは注目に値する。しかし、それをSNSに求めるのは酷だろう。SNSは芸術的な成果が少ないメディアになりつつある。毎日のポストの中で、芸術的な体験がどれほどあるだろう?寧ろ、非芸術的なものに特化して流行が形成されてゆくのがSNSの主流である気がする。
これについては十分に研究する価値がある。
本評論は短く、指摘するにとどめているが、箴言とポストの違いについて頭の隅にあると日々のSNSも違ってみえるのかも知れない。
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