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筆談譚〈第三話〉

 上品だが派手では無い、藍色の紬の着物を着た女性だ。年は不明である。明らかに美しいが、静止している様子が、表情の在り方が成熟している。三十代、もしかしたら四十代かも知れない。でも、若々しく奥床しい色気も見える。
 其の女性の気配に気付いた少女は其の女性と目を合わせ、一瞬止まり微笑した。そして、メモ帳に何かを書いて、着物の女性に見せた。
 其の女性は手持ち鞄からペンケースを出し、万年筆を出した。モンブランのマイシュターシュテュック149、プラチナラインだ。
 「私も参加して良いかしら?」其の女性は書いてメモ帳を私に向けた。
其の万年筆は存在感の在る音を立てていた。シュッシュと云う切れ味の良い音である。M1000と比べるとペン先のデザインが直線的で、鋭いフォルムをしているのが判る。そして、モンブランのミステリー・ブラックと少女が使うペリカンのブリリアント・ブラック、私のブルー・ブラックは、明らかに違いが在った。まあ、ブルー・ブラックは紺色に部類されるのだろう。一方、同じ黒でもペリカンとモンブランでは違いが在った。モンブランは粘着質で掠れに独特の金属感と赤を含んでいる、ペリカンの黒は其に比べてさらりとしている、よりシンプルなのだ。着物姿の女性はペンを立てて書くが其はペンの性質に引かれているのかも知れない。大きなペンダコが在り、其は細い指に奇妙な色気を生んでいた。
 「万年筆のレビューって難しいと思う、何と云っても言葉に出来ない事だから」着物姿の女性は書いた。彼女の字は実用的で在りながら、はっきりとしていて、何処と無く癖が強かった。鍛えられた様な字だ。美しいかと問われると、書としての美しさは無い、ただ、在り様がきっちりしている。〈とめはねはらい〉がくっきりしている。「一つ一つに味わいが在る。モンブランは硬質なペン先だけど、硬い方では無い、柔軟な方だと思う、でも、圧倒的にタフな感じは在る。私はスーベレーンも好き、国産も好き。でも、手に取る事が多いのは吸入式の物、アウロラのオプティマ、スーベレーン、マイスターシュテュック。最初に使ったのが吸入式万年筆だったからかも知れない。此が正解と云うものは無いけれど、でも、好きと云う事が表現出来るのって素敵だと思う」
 モンブランの字と云うのは、私が想像していたものより太い。縦幅があるのだ。着物姿の女性はモンブランをしまい、鮮やかな色の万年筆、オプティマのブルーを出し、続きを書いた。
 「此のシャリシャリと云う感じはアウロラの特徴」彼女の筆は小気味良い音を立てて跳ねた。「所で二人は万年筆をエロティックに感じているの?」
 私は首を振った。
 「別にいいよ。女達の秘め事にエロスが無いとしたら其は退屈だ。私は昔、万年筆を男性器の様に思った事が在る。何と云うか、カタルシスと快感が在ると感じていた。でも、手紙とか、人の手に渡るものはどうかしら?一枚の紙、一冊の本を共有する感じ、折り重ねられる感じに思えない?紙がペンによって存在しているのでは無く、紙に介在する事でペンも書き手を得る。ペンはインクを吸入して紙へと移す、書き手は姿や動きを与える。ペンと紙はインクから文字を生み出している。下着を表しながら隠しているスカートの様に、其処には信頼関係が秘する事に同意して在り、生み出す愛を秘めている。ほら、概念と詩の胎動の様。万年筆は内部と紙の上にインクを隠している」
 私は茫然として赤くなった。私は隠したものを見せ、其を秘する事に同意していた、そして、此の二人の女性に其を知られると同時に認められ許された気がした。私は私の欲求を肯定されたのだ。
 其から私は時間を忘れて筆談を続けた。相手の素生も判らないまま、私達は書き合った。考えると、私は二人の名を知らないままだったが其の時の私は相手の名前の事など気にしていなかった。誰が何を云ったのかは筆跡とインクが明瞭に語っていたからだ。或る種、女子の群に回帰したのだろうか。書いていない時は二人の女性の美しい姿を黙って堪能した。二人の人物は見飽きる事が出来ない美人だった。一方は好奇心の塊の様な高潔な鳥、一方は知的に研ぎ澄まされた狡猾な猫と云う様子で、双方とも高い自立心を感じさせた。
 「内臓や、体の内部ってエロティックなのでしょうか?少なくとも、其はポルノの対象になっていません。女性の性器も性の対象としては外性器だけ、だとしたら、男性的な性とは表皮的で平面的なのかも知れません」少女は書いた。
 其は着物の女性から鋭い批判の対象となった。彼女曰く、内臓的性嗜好が既にあるからだ。だが、最終的には笑い話の様になった。
 「私は万年筆に付いては不節操なのかも。アウロラもモンブランもペリカンも、国産のペンも持っている。でも、面白い事にフラッグシップを好む、スタンダードな物をね。逆に宝石の付いたジュエリーの様な万年筆は使わなくなった。手抜きと云う事は無いのだと思うけれど、どんな場面で使うのか思い付かない。キラキラしているだけの見た目だけで、気持ち良く無いの。ああ、中には重さが心地良い物も在る。でも、其以上と云うのは無い」着物の女性は書いた。
 なる程、でも、ジュエリーとしての万年筆も素敵そうだ、と私は意見した。
 また、着物の女性は書いた。「モンブランのペンはタフだけれどインク・トラブルは在る感じ、色が濃すぎるのか?いや、良く判らない。ペリカンは個体差の問題、ペン先の問題が出るとがっかり。国産は吸入式が少ない、インク沼の様に沢山のインクを使うならコンバーターの方がいいみたい。じゃあ、コンバーターが嫌いかと問われるとそうでもない、慣れてしまえばどちらも愛しい。永らく使えばトラブルは沢山出て来る、でも、使わない万年筆程ガタが来やすい。インクの出入りが多い方がもちも良いから」
 「もちも良いけれどトラブルやアクシデントは多い」私は書いた。
 「でも、まあ、良いと思います。感覚が在る、其を覚えている、其処から再び歩ける事が思い出せますから」少女は書いた。

 気付くと日は落ちていて、私は慌てて時計を見た。私はメモ帳に別れの挨拶を書いた。すると、少女と着物の女性が名刺らしきものをくれた、そして、先程まで書いていたメモ帳をくれた。私は其を鞄に入れ、会計をして店を後にした。
 帰り道、私は筆談によって見出されたものに付いて思った。折り畳まれた紙が展開する様な、此の世の折り目が急に愛しい模様になって行く様な感覚だ。筆談は私の内で続いている。此の瞬間に吸い込んだ線と螺旋、此の襞を作った時に、偶然が私を成していて包み込んで行く、諸々の内へと。
 此は自由ではないのだろうか。秋の陰の中で気紛れに重ねられた言葉は、私には宝石の様に感じられた。夜道の街路樹も街灯も混雑している電車の中すらも、キラキラとしている様に思えた。私は初めて、私の自由と云うものに触れたのかも知れない、と私は思った。

 大幅に予定から遅れてマンションに着き部屋に這入ると、夫が不機嫌そうにTVを見ていた。子供は寝ているらしい。暫く、沈黙が続き、夫はTVを消して云った。
 「気分を変えるのは悪い事じゃない、でも、君の仕事は子供の面倒を見る事だろう。君は母親だ。其を意識の外に置くべきじゃない。一日子供の面倒をみるのが大変なのは判っているだろう。此で僕の休日は台無しだ」余程頭に来ていたのか、夫はTVのリモコンを乱暴にテーブルに置いた。
 私は唖然として言葉も出なかった。
 そして、私は自分が言葉を出せない事に気付いた。失声症と云う奴だ。其から色々と在り、私は夫と別れる事になった。声は未だに出て来ない。だが、夫の所為で声を失ったのか、あの二人の女性の筆談が切っ掛けか、或いはもっと前から失われていたのか、其は未だに判らない。
 かくして私は文章のコラージュ作家となった。そして、自らに問うている、何故万年筆が好きなのかと。

 完

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