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筆談譚〈第一話〉

 私は万年筆が好きだ、だが、如何に好きで、如何に不可欠なのか、上手に表現が出来ない。
 或る休日、私は文房具が入った鞄を持ってカフェへ向かった。秋の曇り空、涼しい風に吹かれて、万年筆で書き物をしながらコーヒーを口にする一時にワクワクして歩いている。日々の忙しない生活を泳ぎ切る為の私なりの気分転換だ。一時期、ノートパソコンを持ち歩いてみたが、結局、万年筆で書いて行き、必要が在れば後から入力し手直しをする習慣になった。とはいえ作家では無いので多くの場合はメモとして唯残っているだけである。万年筆の何処が良いのか、と問われても上手く言葉に出来ない。もしかしたら出て来る言葉に違いは無いのかも知れない、と云うか手間ばかり掛かって手段として時代錯誤だろう。安易な文がSNSに載って人を傷付ける事が無いと云う事は在るが、其は万年筆で在る必要性では無い筈なのだ。
 道の脇に茂る草は気持ち良さそうに揺れている、其処に疑問も余分も無いかに見える。
 私が使う万年筆はドイツのメーカーペリカンのスーベレーンM600ブルーで、インクは同社のブルー・ブラックだ。比較的しっかりとしていて、且つ、可愛らしい品だ。女性らしく御洒落をして来なかった私が最初に意識をした〈おすまし〉だろう。
 M600の柄は、縦縞で、何処か奥床しく、インクフローが素敵で、最初から最後までスラスラと書ける。其は長い雨の水溜まりの底を蛇行する幽霊の魚を思わせる。時に其は語り掛けて来て、語尾を正したり、誰かを許したり、時に記憶と感情面で私にアドバイスをくれたり、過去を思い出させてくれたりもする。漠然と在る悲しみや不安も、其を通すと少しだけ遠くなる気がする。何も解決はしないのだが。

 万年筆には金ペンと鉄ペンとが在り、前者の方が高価で軟らかく、後者は安く使い捨てられる物からしっかり使える物まで広くある。金ペンのメリットは柔軟性と腐食への耐久がある点だ。金ペンは其なりの価格から上は際限無く在るが、最近はネット通販やネットオークション等、安く買える機会もあり一概に云えない。装飾に宝石貴金属を使った物など殆どジュエリーと云える。まあ、文字通り沼の様にあるのだ。
 メーカーも様々だ。
 国産は大手三社《セーラー、パイロット、プラチナ》が代表的で、概してペン先が細く日本語に向く特徴がある。一方でインクの充填方法〈インク補充方式〉としてコンバーター、カートリッジ兼用を採用している場合が多い。
 充填方法は三つある。
 カートリッジとはインクボトルを必要としない物で、弾丸の様なインクが入っている使い捨てのタンクをペンの後ろから装着するタイプだ。コンバーターとは着脱が可能なインクタンクの事で、コンバーターを使うにはインクボトルを必要とする。逆に云えばインクを選べる。三つ目の充填方法が吸入式。万年筆本体にインクタンクが内蔵されているタイプだ。
 私が二番目に買った万年筆はパイロットのエラボーだった。《金ペン、インクカートリッジ、コンバーター兼用》悪く無い。二本目が在る理由は、メインのペンをメンテナンスに出したのが切っ掛けだった。コンバーターのメリットは内部を交換可能でメンテナンスが楽と云う点で、デメリットはコンバーター其の物の脆さと充填インク量の少なさだ。
 外国の物は色々と在るが、モンブランとペリカンが二大巨頭と云われている。
 私のペンはペリカンの中では上から三番目の大きさだ。スーベレーンは全モデル金ペン、吸入式である。最初の印象ポイントはインクだったと思う。安価で使いやすいインクと、高級なインクのラインナップがあるのだ。とは云えインクに定評が在るメーカーはペリカンばかりではない。唯、私がペリカンのインクを気に入っただけなのだ。

 最寄り駅から電車に乗り、三十分程移動した閑静な住宅地の袋小路にカフェ宿り木がある。沢山の花で溢れたカフェで、アレンジや花束、観葉植物が並び、花屋としても営業している。花は案外高く、私は購入した事が無かった。店の表は蔦の植物が壁を這い、窓は曇りガラスになっていて店内の様子は伺えないが、這入ると店内は光で溢れている。ドアを開くと前方の奥にカウンターがあり、其の更に奥にキッチンがある。店内には至る所に古い本が積まれて花が在る書斎にも見える。店は一階と二階に分かれていて、分煙もされ空気清浄機も作動している。カフェ宿り木は何処か一昔前の喫茶店を思わせる店だ。テーブルは重く厚みの在る物で、椅子は心地良くしっかりとしている。私はテーブルと椅子がしっかりしていない喫茶店と云うのがどうにも信じられない。チェーン店と云うのは読み書きがしづらい机と居心地が悪い椅子をわざと置いているのではないか、とすら思っている。まあ、其も仕事の内と考えると仕方が無いのかも知れない。此の店の食器はびっくりする程美しい物が多い、間違って落としたらどうするのだろう?二階のガラスで区切られたスペースに花のアレンジをするスタジオが在り、花を保存するキーパーが置かれている。光を受けて水揚げをされている花達を見ながらコーヒーを飲むと云うのは実に贅沢だ。床は質感の在るフローリングである。元の建物がしっかりしているのだろう、独特の音が響かずに鳴る。
 私は白いガーベラのアレンジが在る窓辺の四人席のテーブルに通され、コーヒーを注文した。休日の昼と云う事も在り客が多かったが、周囲の客は皆小さな声で御喋りをしている。
 窓から休日の都心の光景が見える、曇っていて爽快とは云えないが、曇りの日のカフェと云うのも私は嫌いでは無い。窓から花を散らした夏の草花が見える。
 私は万年筆とノートを出して、天気の事やテーブルの花の事を書いて、筆を止めた。書く事が思い付かないのだ。
 万年筆を持っているからと云って文が書ける訳では無い。小説なんて書けないし、まして、詩も書けない。フィクションを書く様な想像力を私は持っていないのだ。大学では文学部に在籍していたが、文学部でフィクションの書き方を教わった事は無かった。そもそも其の様な授業が在ったのだろうか?文芸学科と云うものを聞いた事が在るが、私の能力で行けたか判らない。万年筆とノートを眺めていると、丸で、ピアノを弾けないのにピアノを買った暇な中年男性の様な気持ちになる。学生時代、周りに小説らしきものを書いている知人も居たが、私には難しくて良く判らなかった。本を読むのは好きだが、読むのと書くのは別問題だ。
 コーヒーを一口飲む。香ばしい薫りが口から鼻へと通り、喉の奥へとクルリっと落ちて行く。
 書く事が無い、其は根本的意欲の欠如の様に思える。ペンを持っているのに書く事が無い、其は権利の喪失にも見える、又は、自己欺瞞にも見える。書く事が無いのに立派な物を手にして、自分のグロテスクな欲求を満たしている様に見える。書くモチーフを失った作家が自らを作家と云い張っている虚勢にも見える、だが、私は書く事を失った作家ですらない、書くべきことが在る筈なのに、其が見付からない唯の暇人なのだ。其処には認識が無い、或いは知覚が無い、書かずに居られないと云うモチーフが無く、其を手繰り寄せる技術を私は持っていない。認識出来ないゴミはそもそも拾い集める事が出来ない。でも、私が病的に認識する力を失っている訳でも無い。寧ろ、書かなければならないものが在る事が私からしたら異常だ。虚構を描くと云う事は其自体が其の人の自由であり、尊重されるべき欲求であり、もしくは狂気ではないか。
 だが、私は万年筆で何かを書きたいと思った。現代の人間は書く事に飢えている。私も同じだ、ただ、飢えの在り方が万年筆を通していると云うだけだ。どうして書く事に飢えるのか。其は自我が未成熟だからかも知れない。だとえば、私は万年筆が好きなのに、其を伝えられない、他人に対しても、自分に対しても。
 私は仕方が無く自分の衣類の事を書き始めた。
 灰色のロングカーデガン、プリントが入ったTシャツ、比較的長めの紺色のスカート、私の中では外行きの御洒落だ。ただ、足元がスニーカーと云う事も在り、全体的に実用的な印象になってしまう。正直、暑さが続いた所為か、薄着に羽織る以上の物がまだ考えられない。面積を小さくすると云っても私では限りが在る。何と云っても体毛が気になって仕方が無い。夜に処理したとしても気になるし、剃り過ぎると肌が荒れないか不安だ。そして、気付くと肌がザラりとしている。其の肌触りにぞっとする一方で、其は仕方が無く在る狂おしい私の在り様だ。其をバスルームでイソイソと処理する、不毛なサイクルだ。大体、見られ触れられる当ても無いと云うのに手入れをする必要が在るのだろうか、と自問する。だが、其は自尊心の問題なのだろう。スカートも、カーデガンも、此の中途半端な長さの髪の毛も、肌も、ムダ毛の処理も、万年筆も、メイクも、鏡の中で起こる何もかもが、私に生きる活力を与える糧なのだ。其こそカフェに居る事も。
 衣類の事を書く心算がムダ毛の話を書いてしまった。然し、ブルー・ブラックのインクで埋められている白いページを見ると私は訳も無く高揚した。小説の塵は認識出来ないがムダ毛の塵は認識出来る。でも、此の感情が下らないと云えるだろうか、少なくとも私には云えない。ちょっとしたアクセサリー、ちょっとした御守り、ちょっとした花で上がる気分が私の日常を支えているからだ。でも、社会人になって感じた事は、社会と云う場所では人の自尊心など踏み潰す雑草以上にならないと云う事だった。
 「ムダ毛を剃り雑草を育てる」私は徐に其の様に書いた。此を上手い詩に出来たら、きっと楽しい気分になれるのに、と私は思った。
 自分で自分の事を書くと、どうしても衣類から内側の方へ向いてしまうらしい。体とか精神性とか、書くには少々ナイーブな問題ばかりに目が行く。自分を見ると自分に付随する記憶や無駄も想起してしまう。時に、其は自分に対する補正として私を騙し、時に自傷の様に細部から細部を生み出す分裂となり私を落ち込ませる。でも、其等は私の私らしさなのだろうか、寧ろ、其等は私の私らしさによる痛みに思える。自我の痛みを確かめる、確かに其は文章的快楽なのかも知れない、殆ど依存的な。此が他人だったら、少しは違うのだろうか。
 例えば、奥の喫煙席に座っているカップル、一方が着物姿の男性で、一方がトラディショナルな衣類を着ている女性だ。華奢な女性で、淡い色のダブルベストの中は純白の長袖バルーンスリーブのブラウスが見え、黒いハイウエストスカートは膝ぐらいで其の下から白いストッキングが見える。かっちりとしてふんわりとしているがいわゆるゴスロリ風と云うものだろう、天地がひっくり返っても私は着られないであろう衣類だ。男性の着物と云うのはどれも同じ様に見える、女性の浴衣と着物の正しい区別も私には判らないのだ。考えてみると晴れ着以外で着物を着た事が無い。でも、レンタル物で着付けて貰った絹の衣と袴の着心地は素敵だった。経済力が許したとして、私は其を着るだろうか?いや、気後れして外出も出来ないかも知れない。其を云うならゴシック風味の服も同じだ。手に入れたとして其を着る事が出来たとして、其を着て外を出歩く事が出来るだろうか。考えると何がゴシックなのだろう。其の文化的成り立ちすら私には判らない。男性の方は物静かな人らしい、美しいとかかっこいいと云う訳では無いが、妙に品が在る。年は良く判らない、三十代か四十代か、浮世離れした世捨て人と云う所か、いや、其の様な身分が現代で在り得るのか私には判らない。何処と無く着慣れているからだろうか、ちょっと御洒落で着てみましたと云うのとは違う気がする。何だろう、違和感が無いのだ。女性の方は美しく若々しく見えるが、表情が変わらない所為か、ちょっと冷めた感じがする。肌が白く、ああ、肌質って衣類を選ぶのだな、と思い知らされる。でも目の辺りに在る意志の強さは学生と云う訳でも無さそうだ。学生服を着せたら十代と云い張る事が出来そうな人が表情一つで年齢を変えると云うのもおかしなものだ。気弱な彼氏を引っ張る彼女と云った所か、何処と無く微笑ましく見えた。
 エプロンをして花の手入れをしている店員さんは如何にも麗人と云う感じの人だ。てきぱきと花を切り、手が空くとテーブルを片付け、店員としての存在感は静かだ。人をもてなす特殊なスキルでも身に付けているのだろうか?目で追うと其の労力と云うものが判るが、目を離すと判らなくなる。ガチャガチャと居て、早く出て行け的な在り方をしていない。丁度、ガラスの向こうで、大きめの花束を組んでいるのだが、其は魔法の様にみるみる大きくなり、一つの秩序を持った球ととなり、花瓶へと投げられた。どうして、白いシャツと黒いパンツとエプロンで美しくなれるのか。此ばかりは不思議で仕方が無い。私がモノトーンの衣類を着ると葬式っぽくなってしまうが、着る人が着ると華が生まれるのだ。
 そして、其の店員さんが居るガラスの仕切りの手前に三人組の女の子達がいる。高校生か大学生だろうか、私服なので区別出来ないが恐らく十代だ、其は若さと云う荒々しさにも見える。或る種の女の子は、女の子と云う群になった時、匿名の力を手にする。彼女達が特異であると云う訳では無い、寧ろ、静かで御行儀が良く品が良いグループに見える、然し、其は女の子と云う狂気に見えるのだ。シンボリックな云い方で申し訳無いが、一時的な個体差の無さを感じる。此は悪口では無い、どの子も可愛い、可愛いけれど区別が出来ない。少女達と云うのは性的で在りながら性を守っている、或いは守らされている、誘惑的で在りながら周囲を拒絶している、或いは拒絶させられている、自己愛に満ちながら自己嫌悪をしている、或いは其を強制させられている。其処には他人から押し付けられたものと自ら在りたい姿とが矛盾してダブルバインドの様に在るのだ。日本の女性権利と云うのは考えているより深刻に遅れている、だが、少女達は其を知っていながら知らない振りをしている様に見える。少女達は子供を演じる大人の様だ。其の群から、より美しくなる子も居れば、群から離れると控え目な人に見える子も居るだろう。私も嘗ては其の中に居たのかも知れない。
 考えると私は制服と云うものが好きになれず、中学の三年間しか着ていない、高校は私服だった。然し、三年間は私も女の子で在ったのだ。時々ヒステリックにも思えるあの活気を今は愛おしく感じる。
 名も知らぬ、見ず知らずの他人を書いた文。此は中々壮観だった。たった一ページと少しだが、私を通して出て来た言葉で在り、或る種、想像で書かれたフィクションである。もしも、書かずに居れば明日には忘れていたかも知れない光景、印象、私の視線の歩みやステップの跡だ。
 私は密集した自分の文字にちょっと嬉しくなり、恍惚と其を眺めた。
 「ペリカンのスーベレーンですか?」唐突に後ろから話し掛けてられ、私は驚き、其の人を見ると共に、ノートを隠した。
 其は私の後ろの席に座っていた女の子だった。


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