EOからの手紙6・死
死
ある禅僧が私に言った。
「あなたは死を体験したと言うが、死を体験などしたというのは、実際には死んでもいないのだから、本当の死ではなく、従ってそれは死の体験とは言えないのではないか」
しかし、これは科学者、物理学者、医者の次元の質問だ。
実に、この死というテーマは、それだけでも本がひとつ出来てしまうほどの事を含んでいる。ただし、私が言う死とは、医学の問題ではないし、また輪廻の問題でもない。
ひとつ、死という定義をしてみようか。
死とは、死の現象との対面を死と呼ぶ。
実際に死んでしまったら、
それでは死を問題にすることの意味もない。
とても、注意深く、この言葉と文章を見なさい。
何度でもよく読みなさい。
死の現象そのものは死と呼べない。たとえば、あなたが病院で隣人が死ぬのを見たとしても、心電図が止まり、その者が動かなくなり、医者が「ご臨終です」と言い、家族が泣く、そういう現象を見るだけでそれはあなたによる死との直接対面ではないのは当たり前だ。そういう病院の風景は、死に対する周りの人間の態度を見ているだけである。
ところ変わり、自然界で動物や人間が死ぬ。
すると獣やカラスや虫がやってくる。ウジがわき、土の養分になる。
それをじっとあなたが見ていたら、自然界は休む暇もなく、次の変化へと向かうのを見るだろう。虫やカラスは、そのひとつの死体を喜んでいる。食事にありつけるからだ。
できれば、我々は人間が動物などに食べられる場面をしっかり見たほうがいい。
泣く、悲しむ、葬式、埋葬、こんなものは全部人間の勝手な文化だ。
しかし、死の現象を外からいくら見ても、それはあなたの死の体験ではない。
では、厳密に死の体験とはなんなのか?。
それを、他人の現象としてではなく、あなたの体験としてあらしめるためには、体験者としての意識が残っていなければならない。
だからこそ、もしも本格的に死んでしまったら、死について語る意味がないのだ。
死が、ただの消滅だったら、誰もそれを問題になどしない。そこに社会やあなたの観念、疑問、恐怖があり、そういうあなたがいるから、この問題は論議されるのだ。
私は、動物に向かって、死の説法などしたことがない。ということは、つまり、
それをあなた達が、問題にするから、私は語るのである。
また、問題にしない振りをしていても、世間も禅も、問題にしない振りをしていても、それはずっとあなたたちの内面に根底に横たわっている疑問だ。だから、私は語る。
そして、そこに死の観察者が在るからこそ、それは問題にされるものになる。
さて、では、どこからどこまでが死の体験と言えるのだろう。
病気でいくら衰弱しても、それは死ではない。
死へ向かう途上の生だ。同じく、危険も生に属する。
餓死しようとする寸前ですら、まだ死ではないし、それは飢餓そのものが空腹という生の、肉体の機能からのものだからだ。
肉体が、いかに苦しんでも、病んでも、瀕死でも、それはすべて生に属する。
死の体験は、その肉体からの意識の分離プロセスから開始される。
呼吸停止、心臓停止、が15分続くと脳死に至ると言われるわけで、私の場合、数分の停止だったので、脳の損傷がなかったようだ。
しかし、そのプロセスには医学は追従できない。また、それは生理的な夢ですらない。
もしも、その体験が死体の異変が生み出す夢であるならば、それはとんでもない価値ある夢だ。そこから戻ったら、生死分別はなくなってしまうからだ。
もしも、死の体験が肉体の異常による脳の内部の幻想というならば、それも結構だ。
私はそういうオカルト心霊世界の路線でこの話をしているのではないからだ。結構だ。それを幻想と言うのは結構。
ただし、体験者はその前後であなたの人生はまるっきり変わってしまう。
ただひとつ、大きな厄介な問題がある。
この死のプロセスには2種類存在するという事だ。
ちょうど、あなたが夜、眠ると、2つの道があるのと同じだ。
ひとつは、完全な熟睡。
もうひとつは夢だ。
死の瞬間に非常に似たことが起きる。
純粋な死の道は、熟睡に似ている。それは、ただ消えて行く。
意識や思考に、なんの痕跡もない。なんの執着も疑問も恐怖もない。
それはただ消える。
しかし、断言するが、ただ消えるというのは、
決して、そんなに楽に自然に起きることではないのだ。
あなたが、生きている間に光明を得ていなかったら、
ただひたすら死ぬということは絶対に起きない。
たとえば、死ぬ間際にどんなに衰弱して意識もうろうとしていた病人も、いざ肉体から分離すると、とたんに意識が生きていた時よりも何十倍もはっきりする。
外側からあなたたちが誰かが死ぬのを見ていたら、
「ああー、なにも苦しまず、思うことなく、死んだんだね」と言うだろうが、
本人はまったく全然違う。
その後にこそ問題が発生するのだ。それは外から見ているあなたからは分からない。
死んで、あるいは一時的に死んで、肉体を分離すると、
とたんに、あなたの全意識は生き生きと覚醒する。
そこでは、あなたがほんのちょっと何かにひっかかっただけで、それは膨大なこだわり、執着に発展する。微かでもである。
ちょうどあなたたちが、座禅していて、たまに思考がしつこく沸くこともあるだろう。
そんなものが100倍ぐらいに増幅される。
たとえば、あなたは夢の中では、本気で恐怖する。ささいなことでも、引き戻す現実がないという状況では、そこですべてが思考の世界だ。
ほんのちょっとした、執着、思い、思い残し、ほんのちょっとした肉欲やその他の欲望、そしてあなたの恐れるものも、何十倍にも拡大されてくる。
死とは、ちょっと、これはいわゆるドラッグに似ているのかもしれない。
なにもかもが拡大されてしまう。
その最大の原因は、
肉体という安定した知覚や安定したこの世界と断絶してしまうために、もうそこには、あなたの思考しかないからだ。
決して覚めない、自分の作り出す悪夢に一歩踏み出したわけだ。
目覚めたくても、もう戻る肉体はない。
あなたは自分の肉体が死んでいるのを見てしまう。
さて、ここからだ。
私の言う死とは、ここから始まる。それは医学ではまだ死んでいない状態であっても、本人にこの分離が開始したら、ここからが死への対面だ。
こんなものがなくて、あなたや禅が言うように、
ただひたすら死ぬ、終わりで済むなら、何も我々に探求など必要ではない。
しかし、もしもあなたが死ぬ時に悟りの中にいなかったら、
あなたが抑圧した全部の疑問、全部なにもかも、一切すべてが、そこで拡大する。
あなたは、死ぬなんていうことを実感などしたことがないに違いない。
それは、リハーサルじゃない。本番だ。引き戻れない。
その実際の本番と、あなたたちの想像の推論や反論じゃ、話にならない。
ちょうど、悟りについて体験しなければ、まったく空論で終わるのをあなたたちも充分に分かっているはずだ。それは食べなければ味についていくら説明しても無駄だ。
まったく同じように、死のプロセスも体験がなかったら、ただの空論と論争にすぎない。
その本番はまったく予想と違う。これはブッダも言っていたことだが、まず自分の肉体、自分のあの家、自分の親しんだ世界への大きな愛着が沸く。ホームシックの100倍になったようなものだ。ところが、それは断念せざるを得ない。その時、あなたは予想もできないほどの寂しさを味わう。すべてとお別れなのだ。あなたの親、あなたの師、仲間、あなたそのものの肉体との別れだ。
あなたは2度と会えなくなる誰かと別れるとき、少しぐらい悲しんだことはないかね?。
禅の僧侶には、そんなものは、ないわけか・・・。
だが、いいだろう。それがあなたの死では、生の全部との別れになるのだよ。
この惑星、この大地、そのあなたの何十年も親しんだ肉体。隣人、思い出、
そして、あなたの心理的業績、なにもかもだ。全部と永久にさよならだ。
それは、そんなに簡単に、「はい死んだよ」ではすまない。
だから、私は冒頭に言ったのだ。
死んで無意識になるならなんの問題もありゃしない。
問題は死ぬと無意識どころか、ものすごい覚醒のもとに、あらゆる思考が浮上するのだ。
もしもあなたが、蛇が嫌いなら蛇が1000,
ゴキブリやネズミやクモが嫌いなら、それが1000匹、あなたを取り巻く。
あなたが恐れるものにあなたは取り巻かれる。
そしてあなたが愛着をわずかにでも持つものに、あなたはこだわる。
死ぬ瞬間のプロセスでは、人はほとんど、わがままな子供のようにその本性を現す。
こうした記述は、地獄のエンマだのの話にしか仏教では登場しないが、
ある意味で、そこであなたは自分の一切を鏡で見ることになる。
あなたの一番嫌いなあなたの姿を見せられ、あなたの嫌うもの、あなたの好きなもの、そうしたすべてをここで披露することになる。
通常はどうなるかというと、なんらかの執着の思考が種となって、あなたは、ある方向へ安心するような光で誘導される。
あなたは、「ああ、極楽にでも行くのか」と思うが、とんでもない。
それは魂の回収処理に回される。この話には地球人はついてこられないので、ここではやめておこう。
とにかく、あなたは、騙されて、生まれてしまう。その責任は全部あなたにある。
あなたは生まれたい、まだ生きたいと思うことになる。
すると輪廻のコースが実に丁寧に用意されている。
人間、動物、別の宇宙、別の次元、仏の世界、いろいろ、なんでもありだ。
これは、あなたには冗談に聞こえても、これはあなたが死ねば分かることだ。
まるでレストランのメニューみたいに『どれになさいますか?』の質問がやってくる。
あなたには人間の記憶しかない。
だから、あまりにも多様に、楽しそうな別の存在がある、別の世界があるので間違いなく、目移りするだろう。
人間がもういやだ、という人や、自分は人間を卒業したなどと言っていても、そういう者は、人間ではない別の生物を選択する。そしていざ生まれてみると、
どこへ行っても、さして、そんなに変化はないのだ。科学、文明、世界は、ことごとく、実に無数の種類が宇宙にはある。
しかし、決してあなたが逃れられないものがある。
たとえ、あなたは仏が100億人いる世界でも逃れられないものがある。
それが、生きるという苦悩だ。
どこの世界で生きるかは問題ではない。
生きるかぎり、形あるものであるかぎり、仏も人間も共に、生きるためには、
決して停止することは出来ず、永遠に宇宙が終わるまで、あなたは働き続ける。
そして、動き続けるためには、あなたにかならず2つのものが必要になる。
ひとつは生きるために必要な何かのものや行為。もうひとつは、それをやらないと、あなたに苦痛が発生するというシステムだ。
消えようとするものを宇宙は許さないようになっている。
あなたは、ここは存在の生命なのだから、そんなことは当然だと言うだろう。
そして、「どこの次元であれ、もしも輪廻があるなら、それもまた、よしが禅だ。」「どこへ行っても、ただ今しかないのだから、何も思い煩う必要はない。
禅の悟りでいい。これで万事、たとえ輪廻でも、あるいは死んでも、大丈夫だ」と、
あなたは、たかをくくる。
毎日のこの朝だって、ひとつの新しい生のようなものだ。したがって、
生まれ変わりもそのようなもので、またひとつの瞬間にすぎない、、
などと分かったようなことを禅は間違いなく言うに違いない。
いいだろう。確かに、意識にとっては、あらゆる瞬間は今しかない。
だから、永久の生も瞬間も何も変わりはない。
ありのままの輪廻でもよいだろう。
ただし、それが永久に楽である可能性などひとかけらもないのだ。
あなたはどこかへ生まれれば、また一からその世界でやり直しだ。
また40年とかかけて悟らねばならない。
そして、次もまただ。
この繰り返しも、またあるがままだ、という禅師もいるだろう。
そんなことよりも、「今、ここには、今しかないのだ」と。
ならば言うが、
そこまで、なにもかもをあるがままだというならば、
あんた、そこで何を修行してんのだ??。
師家は寺にいて、何をしているのだ。
何もかもあるがままなら、説法などするな。
世俗の争いも、矛盾も、口を出すな。そして、修行もやめろである。
何かが不満だから、あなたたちは禅にいるはずだ。
その不満を忘却するためというのなら、
始めには、その不満があったはずだ。
では、なぜ、そんな不満が我々に生じるのか?。
それは悟りへ向かわせるためなのだとボケ老師はよく言う。
ならば、最初から悟りでいいではないか。何を余計な遠回りをさせるのだ?。
迷いもまた必要な学習なのだ、といいくさる宇宙人もいた。
では、いいだろう。一体なんの学習なのだ?。
なんのための悟りなのだ??。
なんのための禅寺なのだ??。
なんのためでもないなどと嘘を言ってはならない。
それらは、なにもかも、人の苦しみから始まったはずだ。
しかし、なぜそんな苦しみから始まらねばならないのか?。
禅などという世界で、下手に安心なぞ得るから、
あなたは2度と私は疑問しなくていいんだなどと決め付けてしまう。
決め付けて気が済むなら、そうしなさい。
あなたが、決め付けて、万事が安心ならば、そうしなさい。
ただし、矛盾、疑問、発展する世界、混乱、こうしたものは、
あなたが決め付けて安心していられるには限度というものがある。
いいかげん、もうだめだという、限度というものがある。
禅の小安心では、とてもじゃないが、耐えられない限度がある。
あなたは、仮にもしも大安心などしているなら、寺にいる必要はない。
世間のどこへ行っても、安心だ。戦争地域でも安心だ。
だが、現実とはそうではない。
寺の作業、修行は、本当の意味では苦悩には含まれない。
なぜならば、人は寺で苦悩するのではないからだ。
人は、世間で、そしてたった一人で生きて、死ぬ、その意味に苦悩するのだ。
そして60億の命は、そのひとりひとりが貴いのです、なぞと、その口で言いながら、
虫けらのように、イラクの町の500人を、たった1秒で、
一個の最新兵器のビデオ収録のためにアメリカ人は殺すのだ。
何が根本的に、この世界を支配し、何が根本的にあなた一人を苦悩させたり、
あるいは無心でいるための修行に向かわせるのか?。
あなたは「足元を見よ」と禅で言われるだろう。
ならば、あなたのいかなる理屈にも、私はこう言う。
『足元を見よ!』
そのわらじ、その袈裟、その頭は何を意味する。
それは無意味を意味などしていない。
あなたは捨てているのではなく、『求めている』のだ。
たとえ捨てることでも、それを求めている。
ただの一杯のお茶はただそうであることをあなたは私に禅の真理の味として説明した。
ならば、あなたの肉体のすべての激痛もまた、一杯のお茶だ。
本当に割り切れるかな?。
ただの一杯のお茶が、ただそうである、という説明によって
誰か衆生のひとりの苦悩を抹殺してみなさい。
それが出来るのは、そこでは雪渓老師だけだ。
ただし、充分に、自分が自分を苦しめていること、生そのものが苦しみであり、
苦しみの中に、苦しみを忘れて、死に切るのが、たったひとつの安心であるという雪渓老師と同じ境地に、あなたが落ちるためには、
少なくとも、あなたは、絶望的な無力感を通過しなければならないようだ。
どんな、禅の知恵も力尽きてこそ、脱落する。
この脱落の真意が、どうも私とあなたでは異なるようだ。
私の言う脱落は、2度と上がれない脱落を意味する。
あなたたちの脱落は、なんども座禅で落ちる、遊園地の乗物のように聞こえる。
脱落は、ただ一度だけだ。
それがあなたの全面的な死だ。
しかし、その脱落は、なにも実際に体が死んだり、途中まで行ったり、肉体から分離するプロセスでなくても、その心の死は可能だ。
禅は、本来そのためにある。
死の医学的な、あるいは心霊的なプロセスの体験そのものは、希にしか起きない。
だから、そんなものをあなたたちに経験しろと言ったら、全然、道や法にならない。
だから、別の同じ道がある。
それは、あなたの自我の死だ。
それが何であるかあなたが、知りたければ、一瞥するには、
どうしても、これ以上は、座禅ではなく、
死人禅の簡単な実習が必要になる。
座禅と併用してもかまわない。それを座禅に混ぜてもいい。
自我をなくしたり、そんな自我は「本来ない」などと理屈で無視したりせず、
そういうことではなく、
もともと、本当にそんなものは、存在できない地点に直にあなたを座らせて、
その絶対的な虚無にどれだけ耐え得るかが死人禅のテーマだ。
なにもかもどんどん、あなたから落ちてしまうだろう。
落ちれば、落ちるほど、禅が言い続けた、あらゆる事を、
あなたは、まったくなんの努力もなく、自然になすようになる。
もともと、そこが、もともとそのままで悟りであるという地点の地図を私は示している。
つまり、死のプロセスに関連する頭頂中枢だ。
しかしそう簡単にはいくまい。
あなたは、もしもひっかかっている疑問があれば、執着があれば、あなたは、その脳天に長くいられない。
そこはもともと忘却の中枢だ。
だから、あなたは座禅後に、とつぜん反動で、余計に悩んだりする。
この中枢に留意するということは、ゆるやかな死のプロセスです。
つまり、死の瞬間には、あっという間に、執着や心残りがどっと押し寄せるのであるが、
生きているときに、この中枢に留意すると、
ゆるやかに、あなたは自分のやり残した問題に直面するだろう。
それには、何年もかかるかもしれない。
恋愛、性、家族、あたりまえの世間の娯楽、あるいは悟道におけるツメの作業、
なんであれ、やり残した何かが、あなたを引っ張り始める。
しかし、それを死の時に一気に背負うよりも、はるかに楽ですよ。
何年もかかるかもしれないが、あなたはゆるやかに死のプロセスを歩く。
それは、得るのではなく、捨てて行く道だ。
すべてのこだわりを、「捨てたような気になるのではなく」
本当に手放しになってしまう道だ。
捨てるという言葉はよくない。
あたかも、あなたの手が投げ捨てるかのようだからだ。
本当は捨てるのではなく、手から離れてしまうのだ。
死生とかも、禅とか仏法とかも、離れてしまう。
その時、本当にあなたは『無垢』になる。
それまでは禅という『垢』がまだついている。
あなたたちも新参者と、禅論議などしないはずだ。
新参者には「ただ座れ」である。
私もまた同じだ。
禅とは、ちょっとだけこれは異なる。
基本はまったく同じだ。
ただし脱落の速度が違う。
違いは、速度だけ。
結果は禅と同じだ。
ダルマが転ぶのは、早いに越したことはあるまい。
だから、今後あなたに私が言うことは、基本的にはひとことです。
死人禅の4つの基本的な簡単な方法がある。それは実に簡単だ。
それを行うこと。あなたは別の法脈の門下ですから、むろん強制などではありません。
ただ今度は、一杯の私の立てた抹茶を召し上がって下さい。3口でいいのですから。と、
私は語りつづけていく。
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