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EOからの手紙14・幸福

十10(幽雪)殿へ

人間という生物としての限界はあるものの
完全な緩みとくつろぎの『背景』になるものがあります。
その件に関しては、あなたが私の家に滞在している期間には、充分には示唆することが出来なかったし、また、あの時点では必要な事ではなかった。
それは、
観照者が消え、在るという自覚も消え、完全な未知に没入してしまう最後の問題である。「観照者」と言うバグワンの言い方に多大な問題があった事は、
さいさん、EO氏もサニヤシンたちに言って来た。
しかし本来ヒンドゥー語のものだったから、英語での講話に無理があったことと、加えて弟子たちのレベルの問題で、
便宜的に彼は観照者という言語をあてはめたようだ。
実際、同じ「存在の詩」の第10話では、その最後の境涯について
最後の微妙な「ただ在ることの自覚」が落ちるという問題が出て来るのである。

さて、、、
バグワンのあの本に出て来るこんな1行をEOがひねり戻して表現したい。
バグワン「瞑想するということは、ひとりの観照者になるという意味だ」

EO『瞑想するということは、ひとりの観照者になるという意味

アンダーライン(幽雪注;太字)以外を残して後は不適切なものだ。
まず、瞑想するの「する」は余計だ。あたかも誰かが瞑想していることになってしまう。禅ならば座禅が座禅をしていると言うだろう。だから、座禅するとは・・ではなくて、単に『座禅とは・・』、と言えばいい。
次に、一人の観照者になる・・・であるが、
一人のと言う言い方は、個人を指さしてしまう。だから不要である。
観照者になる・・という「なる」もまたいらない表現だ。なぜならば、それは
なるのではなく、「在る」からだ。
さらに「観照者になるという意味」であるが、それは『という意味』ではなく、
座禅や瞑想は、なんとかの意味ではなくそれで完結した『ただの事実』である。

ということで、EOがバグワンのこの1行を言い換えれば
『瞑想とは、観照そのもの』になる。

誰かが観照しているのでもなく、
観照をやっているのでもなく、なっているのでもなく、
観照そのものが観照で在るだけである。
そしてその中心の観照者などというものは知られる必要はない。
観照者を見付けるのではなく、
観照そのもので在ればいいだけだ。
しかも、それは「あっ、観照している」などという自覚や反省の余地はなく、
振り返ることのできない、瞬間にただただ観照が起きているだけである。
さらに言えば、観照という言葉さえも概念を生じてしまうので、
もはや、何も言えなくなってしまう。
つねに、最後は何も言えないのである。

『あっ・・・・・?!?!?!・・・・』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私が一時、原稿にしばしば雪渓老師を引用した時期があったのは、
彼がこの点を比類なき「しつこさ」で強調していたからだ。
だが、それは体験なしには、味わうことの出来ない彼の言葉の方便である。
禅の人達はさておき、数人のサニヤシンの中に限れば
「知られるものは、なんであれ、それではない」と雪渓老師の要点を味わったのは、たぶん、某と蓮だけだろう。

ただし、言葉というのは、体験した者が理解し、いや、理解ではなく「味わう」ことのできるものがあり、もうひとつは方便として騙すための言葉がある。
そういう点では、雪渓老師のあの大きな一言は、どちらにもなり得るおもしろい言葉だ。
すでに、それが体得されているものには、重要な要点だと理解されるが、
修行者にとっては、それは謎、もしくは工夫になる。
だから、修行者が何か一瞥したり悟ったりするたびに『これではない』と捨てるための工夫の内なる「合図」になる。
おなじようなことは、インドでラマナという人が言い続けたし、古典的なインドの瞑想の方便でもある。すなわち
『観察されたものはなんであれ、それではない。それではないと言い続けて、最後に残っているものがそれだ』と。
ここにもまた、ひっかけが隠れている。
最後に残っているものを発見などしたら、
発見者がまた立ち現れる。すると最後に残っていたはずのものは、たちどころに
発見されたものになってしまい、対象になってしまう。
だからEOは言い続けた。
どういう工夫、方便、瞑想の暗号、合図を<はしご>にしてもいいが、
最後は、ただ絶句するし、発見もないし、発見者もいない。
ただ在ると言っても、ただ在る自覚があるわけではない。
何かをそれに対しては全く言えないと・・・。
言えないどころか、指さすこともできない。
まるで身体の中心に磁石で引き付けられるように、何かの軸の「ようなもの」に密着してしまい、動けなくなる。
動けないから、もう中心者だの観照者というふうにそれを認識はできない。
『あ・・・』というのが、自我としての人間や探求者が最後に発する言葉、あるいは『呻き』である。それには意味はない。
意味や感情ではないし、理解した実感から発する言葉でもない。
ピタッと、『それ』と合致した時に最後に残った最後の、断末の一声・・・。
それを発しているのはたぶん、『最後の自覚機能』だろう。
『あっ・・・』と言ったあと、『・・っ・・・これだ』と言うつもりが、
『これだ』と指さす意志が『あ』と共に自滅して消え失せてしまい、
『これ』になってしまう。
なってしまう、というよりも、
ただこれ、ただこれ、これ、こ・・・・・ぁっ・・・・でまた言葉がなくなる。

さて、これが死人禅の頭頂または、頭上点留意が引き連れて行ける限界点である。

だが、この一点は、それが単独で悟りの点として在るわけではない。
その点には、それを支える背景がある。

あなたもときおり、もう一切の工夫も座禅もせず、ただ夜なり昼間なり、
寝床になんの工夫も持ち込まず、横たわることがあるだろう。
すると、ときおり、思うはずだ。
本当にくつろぎの中にあるときには、禅やら悟りやら、留意やら、
まったく、一切どうでもいい。
ただ、そのシーツの心地よい冷たさや暖かみ、心配のないくつろぎ、
怠けの居眠りがただ楽しい。と。
ほんの小さなその幸せは、もう禅も工夫も、私の方便も入り込めないほど
いわば、狭い知覚の中にある。
ただ、布団とくつろいだあなただけしかそこにはない。
座禅や瞑想、あるいは死人禅なしでも、
本来ならば、ただ、これだけで、人は幸せであれるわけだ。
実際、なんにも知らないほうが、よほど幸せなのだ。そのくつろぎを変に観察し、どうしてこんなに安らかなのかと思索したり検討したり方法化が起きて、あっと言う間にシーツのありのままの感触は、観察されたものに変わってしまう。
ただ、そのままにしておけば、そこにあるのはただのシーツの感触だけなのに。

だから、私は、こうした何もかもほっぽらかして、
ただ横たわる瞬間がとても好きだ。どれぐらい好きかと言えば、
『そのまま死んでもいい』というぐらいである。

さて、ここで、やっと本日の本論に入れることになる。
******************
EOが『もしかしたら、私は禅について言っているのではないし、仏教でもない』と、ときおり言うのは、もしかすると、彼は宗教や悟りを問題にしているのではなく、たったひとりの個人の死ぬ時の『安楽死』を
本当の問題にしているからかもしれない。

生とか、禅とか、いかに生きるべきか、いかに在るべきか、いかに、あるがまま、いかに、そのままに、淡々と、という禅や修行の『成果』を彼はあまり問題にしていない。なぜならば、
成果というものは、何かに対しての成果だからだ。
成果というものがあれば、失敗というものもつきまとう。
あなたが、あなたの意識の在り方、死人禅的な留意の発達程度を自覚して、もしも「反省」したりすると、反省というものはあきらかに、すでに『善悪』に汚染されている。
反省とは、かくあるべき方向とそうでないものを基準に生まれるからだ。

だから、死人禅は反省を止めさせる。
これは自我を発達させた人間には困難な事だ。
我々は反省からあらゆる「改善」が生まれると我々は教えられ、また、徹底的に
それが「修行」であると思い込んでいるからだ。
改善、進化、発達、悟り、なんであれ、そのプロセスで我々は以前の自分と現在に比較を持ち込む。そして反省してしまう。
では、反省しないというのは、どういう状態だろうか?。
言うなれば、私の毒舌方便のひとつにはこんなものがある。
『しょせん、人間など、反省する価値もありはしない。なぜならば、
反省して改善したとしても、そんな改善はたかが知れており、地球全体の幸福に、仮に貢献したとしても、ただ、それは塵のような惑星の平和にすぎない。
さて、反省できるということは、あなたたちは、たいそう立派な理念、目標をもっているという事になる。なぜならば、理念や理想こそが、あなたに現状への反省を生むからだ。ならば、あなたに反省を引き起こすその理念はどれほど立派なものなのだろう?。たとえば、それが悟り、大悟だとする。
では、それが万一あなたに起きたとしたら、
あなたはその時、自分を見て「やったぞ」と言うつもりだろうか?。
それでは、それは悟りではなく、あなたのでっちあげた
「理念が達成された」という自己満足に過ぎないではないか?。
大悟に在って、理念が生き残れた試しは、ただの一度もない。
理念は崩壊し、無理念の中の生と死を漂うようになる。
もはや生への理屈も死への理屈もない。だからそれは自然の中の生物たちこそが、手本になる。』

もしも本当に達成されるべきものが、仮にあるとするならば、仮にだが、
仮にあるとするならば、それは
達成対象も、達成者もない、ただの『達成状態そのもの』ではあるまいか。

さて、、
いま、まさに、死のうとする人がいるとする。
彼女は言う
『・・・・おだやかです。もう、なにもいりません。・・・』
医者「・・・・・・・・・」
彼女『大丈夫ですよ、私は安心しています。消えて行くのも怖くありません」
神父「そうだ、あなたは神の国へ向かうのです」
彼女『いえいえ、、・・私は故郷へ戻るだけですよ』
神父「そうですよ。故郷は神の国です」
彼女『いえいえ、そうではないのですよ。故郷はただ故郷なのよ。それはただ・・』

禅師「そうぢゃ。ただそうなのだ。ただそうなのだ」
彼女『あんたたち、いいかげんに、静かにしてよ!!!』
かくして、偉大な最後の言葉を残して彼女は消えた。

『いいかげんに、お黙り!!。』

死者を迎えるのは静寂であり、そこへ向かう死者もまた静寂である。
その静寂の中には、いかなる理念も工夫も禅も悟りもない。
他人がそれを悟りだと言おうが、言うまいが、彼女はただ消えるのである。
彼女が仮に悟っていたとしても、その悟りも消えるのである。
では、本人の彼女には、ほんとうは何が大切なのだろう?。
彼女に向かって禅師が「それではない、それではない」と何千回言っても、
消えようとする彼女には全く無意味だ。
彼女には「それではない」も、「それである」も何もない。
全一的な静寂が訪れているからだ。

彼女が静寂を感じているのみならず、彼女もまた静寂に同化してゆく。
そのプロセスには、いかなる悟りも入り込めない。
この時、一体彼女を包み込んでいるのは、なんなのだろう?。
悟りや、偉大な境地なのだろうか?。
いや、・・・
彼女は・・
『幸せ』なのだ。
やすらかで、安心して、
満たされ、無言のまま、幸せなのだ。
この幸福感がもしもなかったら、禅であれ、神父であれ、
誰かの言葉が彼女を輪廻の中に引き戻すことも出来ただろう。
輪廻の輪を抜け出すたった一つのもの・・・
それは、概念化された悟りでもなく、しがみつくような境地の悟りでもなく、
訓練されるような悟りでもなく、
生の世界の価値観の一部であるようなものでもない。
それは無辺、無価値、無条件の
幸福感に外ならない。
その幸福には、世俗的な幸福のような根拠も理由も基盤もない。

幸福そのものが幸福であるだけである。
******************
修行成果を自分でチェックして幸福になるとしたら、
あなたは修行という自己満足のゲームの中にいるだけだ。
そういう方法では、幸福そのものがあなたを訪れることはない。
いつでも、自分が幸福かどうかの見張りのあなたが存在して、自分に是非を言っては
自分を絶えず不幸にしてゆくだろう。

大悟者というものを、もしも見分けたければ、
実に微妙なものがそこにある。だが、これはおそらく、ひとつの基準である。
真の大悟者は、いつでもではないが、ときおり絶対に『微笑』する。
中にはバグワンみたいに慢性的な微笑者もいる。
決して、彼らは目覚めた目付きを絶えずしていたり、
シャキッとありのままの事実に踏ん張っているのではない。
彼らは、ゆるんでいる。だが、やわらかい、均等な観照が起きている。
そして、かならず、彼らは静かに幸福だ。それは劇的な幸福ではない。
劇的ならば、彼らは大笑いする。だが、たいていそれは微笑なのだ。
彼らは社会的な価値観、宗教的な価値観、あるいは禅的な印可判定とは全く別の次元に静かに漂っている。
その彼らの幸福をただの馬鹿、ただの酔っ払い、と呼び
ただ脳のエンドルフィンという快楽物質が分泌されているだけの生物学的な幸福馬鹿だと誰かが言うかもしれない。
だが、彼らは生や死を満喫して死んで行く。
その彼らを誰がどう社会的に説明出来るというのだろう?。

あなたたちが座禅や能力開発に励み、あるいは世俗の者がセックスに夢中になり、ドラッグやアルコールに陶酔し、またせわしなくスポーツや趣味に打ち込み、
あるいは他人を支配して喜び、またはよき服従の良い子であろうとして喜ぶ。
これらの断片的な幸福のエッセンスを何千倍にも凝縮した幸福に彼らは存在する。

ある特定の感覚の刺激がピークに達するような、
これらのいわゆる『夢中』な状態では、あなたに何が起きているのだろう?。
よく、静かに、味わってごらん。
夢中の中には、『あなた』がいないのだ。
あなたは、一瞬だが、あなたの生から、『どいている』。

そして、感覚そのものや刺激があなたを圧倒している。
だから、あなたは本当は刺激や感覚や充実した生活が欲しいのではない。
それらは、あなたが『どく』ための『消え失せる』ための手段にすぎない。
そうすれば、『あなたさえ、どけば』あなたは幸福そのものがその位置を占めることを知っている。
世間は、その為にあらゆる知的、感情的、生理的な『刺激』を使う。
瞑想者や座禅者は、刺激ではなく、その自己をどけるという根本的な方便に着目した。だから瞑想者や座禅者が「無自己の生の戯れ」を自分において一瞥すると、それは、どんな他の世間的な手段でも埋め尽くせない溝になる。
それを埋め尽くすには、
あなたが『その溝そのもの』に落ちなければならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なんであれ、
自分を振り返る観察者のあなたが消えない限り、幸福というものは存在できない。

そして禅がいかなる理由と理屈を言うにせよ、
人間としてのその最後の到達点が、幸福でなかったら、誰も禅など求めはしない。

それが無や、単なる哲学、単なる神秘体験、単なる偉大な境地だったら、
誰もそんなものを求めはしない。どんなに社会的な価値があろうが、
どんなに禅界で優れた境涯だと判を押されようが、
その者本人が幸福に満たされていなかったら、なにもそこには、ありはしない。

幸福とは、軽はずみに定義され、あまりにもありきたりな言葉だ。
だが、だれしもそれを知っている。それを効率よく発生し、
あなたがその中に没入してしまうような本当の意味で科学的な方便をもっていたのは、わずかに日本の禅と中国のTAOとチベットのタントラだけだった。

全世界の大悟者、
彼らは何かを知った者ではない
彼らは、理解者ではない
彼らは愛情深き者でもない
彼らは知識者でもない
彼らは、かならずしも奇抜でもない
彼らはただ静かで無心なだけでもない
彼らは瞬間瞬間に目覚めているのでもない
彼らは特殊な能力者ではない
彼らはかならずしも、導師となるわけではない
彼らは、いわば、
ただの存在性と虚無を揺れる、虚ろな謎だ。
彼らは未知だ。
彼らは、必ずしも巧みな講話などをするわけでもなく、
何かを書き残すわけでもない。
彼らは、どうなるか、誰にも分からない。
ただ、彼らはおそらく、
世界で最も『なんでもない、誰でもない、無名で表札のない寺院に住む人達』だ。

たったひとつ、彼らに本当に共通しているのは、
彼らはなんの理由もなく、、
しあわせなのだ。
それは必ず彼らに微笑を生み出す。
しかし、それは深い知恵の賢者の顔というよりも、
むしろ、日だまりの路上の乞食の、あるいは乳母車の中の赤ん坊の
あの幸福な寝顔に限りなく近いのだ。     1994  1/8  EO


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