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「さとり」を巡る物語

S老師様

現職研修会では、貴重なご講義を賜り、誠に有り難うございました。
昨年と今年のこの研修は、極めて重要で、画期的なものだと期待していました。
私は曹洞宗とは縁のない一般在家からの出家者であり、宗門の高等教育も受けていません。
私の曹洞宗理解は、一般人と全く同レベルなので、今回の研修内容は、「曹洞宗とは何なのか」ということを明確に理解する機会になると期待していました。

先ず感じたことは、
研究者の方にとっては、文献に基づいて道元禅師等の言われていることを解釈することが中心課題になるのでしょうが、そのようにして再構築された道元禅師の「教え」というものは、極めて軽薄であり、「実」が無い、ということです。死んでいるのです。
「言葉」の羅列に過ぎないのです。その「言葉」に「実」がないのです。
このような「教え」が一般民衆に感銘を与え、曹洞宗に導き入れる力があるとは、到底、思われません。
このポイントこそ、今回の研修講義の眼目だと思います。
他との違いを言葉の上であげつらっても、何故、民衆が他を求めるのか、理解出来ないはずです。

「ヨガやマインドフルネスは、世間的な需要があります。」(18ページ)
と認識されているのですから、その効果・効能を素直に認めて、どのような効果・効能があるのかを学ぶべきだと思います。
「曹洞宗の僧侶はどうしたらよいかわかっていない。」(68ページ)
と嘲笑されているらしいですが、それが現実なのでしょう。
人々が求めているのは、高尚(そう)な理屈ではないのです。
今ここにある自己の心の解決を求めているわけです。
ゴータマ・シッダールタと同じように。

曹洞宗の歴史は、「さとり」を巡る物語だと思います。
「さとり」という「もの」「こと」がある、と主張する人と、それに抗する人が折り重なっている歴史です。
「さとり」という「もの」「こと」があると主張する人は、宋代中国禅の流れの中にある人です。
道元禅師は、宋代中国禅に抗して、歴史の中に屹立した存在です。
おそらく、徹通義介以後の人たちも悉く宋代中国禅に飲み込まれているため、曹洞宗は極めて混乱した状態がずっと続いているのです。
臨済宗は、宋代中国禅をそのまま引き継いでいるし、本気で修行した人たちは臨済宗の影響も受けてしまい、宋代中国禅に飲み込まれてしまったのだと思います。
その中で、道元禅師の「言葉」にしがみついた人たちは、その「中身」が分からないままとは言え、道元禅師から離れることなく、道元禅師の教えを参究し続けて来たのでしょう。
その結果、宗門の研究者の人たちの見解と、宋代中国禅に飲み込まれた坐禅修行を挙揚する人たちの考えに甚だしい乖離が生じてしまったのです。

乖離の根源は、「さとり」という「もの」「こと」が、あるのか、ないのか、という一点にあります。
「さとり」が「ある」のであれば、それを実現するための修行をすれば良いだけです。
それは、待悟禅などというものに限りません。「さとり」は、求めたり、期待したりしては得られない、という観点から、別のアプローチを取る道もあるわけです。
修行によって「さとり」に到る、というストーリーは、とても分かりやすくて、常識的な構造なので、誰でも納得できるものです。宋代中国禅以降の「禅」というものは、全て、これです。宋代までの中国禅は、宋代中国禅によって創作されたものです。
その中で、道元禅師の言説は、飛び抜けて異次元に突き抜けていて、誰も付いて来られなかったわけです。

道元禅師の真意を理解するためには、中国禅などを前提しては無理があると思います。
「禅」などというものは無視してしまって、釈尊そのものに還る必要があるのです。
菩提樹下の釈尊です。
そこには、ゴータマ・シッダールタの姿があります。現代の人々と同じように。

人間の心の問題の解決を求めているのです。
根源的解決です。
そのための方法論が釈尊の教説に端を発して、種々、考案、洗練されて来ているわけです。
ヴィパッサナーもマインドフルネスも同じように強力な方法論なのでしょう。
私の先の先師は、「息念の法」として、入出息念経に基づいた説示をされています。
釈尊の心の探究の方法論は、極めて強力なのです。
だから、現代においても強いニーズがあるわけです。
しかし、道元禅師の言葉にこだわって、高尚な教説としてまとめても、それだけでは、全く「救済」の道にならないのです。

道元禅師の主張は、「さとり」を得る、「さとり」に到る、という宋代中国禅の基本思想の否定です。「さとり」というものは、宋代中国禅の創作だからです。これは、浄土門が「極楽往生」などということを標榜しているのと軌を一にしています。
仏教は、そのようなものではありません。
人間の心の問題を解決するものです。
さとりを得るとか、極楽往生するなどというお伽噺ではないのです。
もっとも、心の問題は、脳の問題に直結していて、最早、宗教の出る幕ではないのかも知れません。
宗教は、お伽噺を弄んでいるくらいがちょうど良いのでしょう。

曹洞宗の活路は、「禅宗」というものと決別して、道元禅師の教示に忠実に行道するしかないです。
その「修証一等」の「只管打坐」を行ずるに当って、心の働きの機微に通じ、確実に心の問題を解決する指導者が必要なのです。
「曹洞宗の僧侶はどうしたらよいかわかっていない。」などと笑われるようでは話にならないのです。
その具体的な方法は、ヴィパッサナーやマインドフルネスと重なっても仕方がないです。
釈尊の教えに端を発するものですから、似ていて当然なのです。
私の先の先師の教えは、アーチャン・チャーの教えと似ているようです。(アーチャン・チャーより35歳年長の方です。)

おそらく既成仏教教団は、コロナに止めを刺されて、経済基盤を失い、急激に衰退して行きます。
今こそ、宋代中国禅に抗して「修証一等」の「只管打坐」を打ち立てた道元禅師に習い、行じて行くべき時です。
「只管打坐」を後世に伝えるのが、曹洞宗の使命です。
                               合掌

  令和4年10月23日
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