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EOの公案


 その青年に出会ってから、もう十年になろうとしている。彼は、EO(エオ)と名乗っていた。
 当時、私は発心寺僧堂に安居していた。「一息に死に切るしかないんだ」という最初からの結論が、行きつ戻りつの中で急激に煮詰まって来ている時だった。そこへ友人からEOの文書が送られて来た。非常に激しい口調で禅に対する批判が展開されていた。しかし、その言葉の奔流の中にダイヤモンドのような輝きを感じるものがあった。その鋭さは、私の中に残り続ける持ち物を焼き尽くす炎のように感じられた。ここに突破口があると直感して、彼に手紙を書いた。すぐに長文の返事が返って来た。そして連日のような手紙のやり取りが始まった。

 EOは「死」を前面に打ち出していた。
「目の前に近付いた、本当の死以外に道などない。死と照らし合わせて、死と共にあって、死そのものの中で、その中でしか、本当の解放など起き得ない。」
 EOの説く「死」は極めて鮮烈だった。
「目覚めは、目指してはならない。それは目指して到達するものではない。
あなたが全部、絶望して、希望がなくなってしまえば、あなたは『いま、ここ』以外を失うのだから、嫌でも、なにもしなくても、どんな心理的な、あるいは動作と意識の工夫などしなくても、まるで釘で打ち付けられたように『現在の事実』以外に動けなくなる。だからEOのやりかたは、目標を据えて、今の事実へと覚醒するのではなく、生命、希望、自己、人生、人間、神も仏も、忘却の彼方にあなたが死んでしまうことをまず優先させる。死ぬのが先で、目覚めは後だ。」
 EO自身は「世界は何故あるのか?」という根本疑問から発して、一切に絶望したことにより偶発的に大悟したのだと言う。平成四年二月、三十三歳の時である。特定の団体には一切所属せず、自ら作ることもなかった。ただ、瞑想センターや禅寺へ文書を一方的に郵送し続けた。

 どうしてもEOに会いたくなり、一ヵ月後、発心寺を下りた。すべてを投げ捨てて東京へ行き、一週間、彼の元で教えに従った。彼の物事に対する執拗さは尋常ではなかった。自ら徹底的に試しながら、行法を創り上げていた。
 別れの日、地下鉄の改札口まで見送ってくれた。「釈迦や達磨になるよりも、あなたが『幸せ』になってほしいのですよ。」と彼は言った。「はい。一匹の猫になります。」と私は答えた。陽だまりの中でうずくまっている猫が只管打坐の手本のように感じられていた。
 そして、実家に帰って、七週間の独接心を試みた。親に日常生活のすべてを甘えて、何もしなくても良い状態にさせて頂いた。EOからは連日のように手紙が届いた。その中の一つが深く私の中に突き刺さった。
「ギリギリの生、あとはもう死ぬのみのギリギリの生というものを、あなたに公案として渡そう。
何も、なされる事も、何も目標もない。
何も答えられず、何にもなる必要もない。
なぜなら、あと死ぬだけだからだ。
ギリギリの生、かろうじて生きているという、最低のあなたの姿を想定しなさい。
その最低に、なんで、禅やら、修行やら、が存在できるというのか?。
自分を路上に倒れた、乞食だと思って、
その死期を思いなさい。
そして、もしも、あと、一〇秒で死ぬとしたら、
誰が、そこでジタバタするというのか?。
出来ることなど何もない。
恐怖するとでも言うのか?。
恐怖すら無意味になるのに、何を恐怖するのだ。
安心するというのか?。
安心もあと一〇秒で消えるのに、それにしがみつく事になんの意味がある??。」
 ある朝、目が覚めて、まだ布団の中にいた時、時間と空間が無くなった。それは自らの末期の時に他ならなかった。そこには今しか無かった。すると不思議なことに、もう何も要らなくなった。そのものがそのもので完結していた。「悟り」もどうでもいいことだった。何も必要とせず、何も求めるものも無く、只、行ずることができるようになった。
 平成六年十月、EOは死んだ。三十六歳だった。

<注意書き>
これは「禅と念仏」誌・第15号(平成15年10月)(禅と念仏社刊)に掲載されたものである。

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