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EOからの手紙


<注意書き>
EOからの手紙は、膨大な量に上る。それは洪水のように、雷雨のように届いた。感熱紙にワープロ打ちされたものである。丁寧に下線を引いたり、傍点を打ったりしてある。至る所に手書きの修正が入っている。あまりにも量が多いのでファイリングして行ったが、全部で5冊になった。
その中から3本だけ掲載する。共に1994年1月下旬のものである。

巨人の星

趙州が言う
『そんなに持っていたいならば、持っていろ』

絶望を欲望として扱うことは出来ないにもかかわらず、絶望の果てにある「ごほうび」に、あくまでも「目がくらみ続けている」のが、あなたの現状である。

だとしたら、それはとりもなおさず、欲望をあなたが持っていたいからである。
実はそれを捨てたいというのは、全くの嘘であることは、
いまさら、言われなくとも、あなたも自分でさんざん自覚していると思う。

だから、私はあれほど原稿で、導師や祖師のイメージが邪魔だと言い続けた。
彼らの残したものが邪魔なのではなく、
彼らに対するあなたのイメージが邪魔なのである。
彼らの生きざま、彼らの境地の味、そういうイメージが邪魔なのである。
本当に、それらは、まったく、邪魔だ。
そんなものを持っていたら、いつまでたっても、
自分と彼らとの比較、比較、比較の繰り返しである。
これがあなたに、もたらす最大の弊害は、
あなたから、精神、あるいは意識の『自由』を奪ってしまうことである。
つまり、こういう事だ。
もはや、あなたにとっては、導師、禅、それらがマーヤなのである。
釈尊が瞑想中にマーヤから仕掛けられた幻影にとって変わるものが、
あなたの場合、禅であり、師たちの幻影なのだ。
これは、最も始末の悪い恐怖をあなたに生む。
ブッダのマーヤは、美女の誘惑や蛇神の炎の恐喝だったようだが、
あなたの場合はなんと『悟り』という裸体の美女の勧誘だ。
そして悟らないと駄目だぞ、
悟らなければお前の人生の意義などおしまいだぞ、という形での心理的脅迫なのである。
これが、まさに、今のあなたにおける最大の『幻影』と化している。

自分になされなければならないことも、
そして意図せずして、引き起こされなければならない状態も
重々あなたは承知している。
その承知していること、そんな事は言われなくとも分かっているんだ、という
その分かっていること、承知していること、それこそが、
まさに、あなたのそのマーヤ、、幻影を生み出している。

ならば、絶望してやるでは、駄目だし、
ならば、分かろうとすまい、でも駄目である。
「ならばこうしてやる」の「ならば」は『何々のため「ならば」という手段』だからだ。
だから、結局、なにもかも駄目に決まっている。
そんな作為的な方法では、決して今に戻って来ること、そしてもう2度と今から出られなくなるということは、起きない。
これまた、こういう「せりふ」もあなたは残念ながら、分かってしまっている。

私の門では、死という方便が、なによりも重要なのは、いまさら言うまでもないが、
私の門下でさえも、『ならば心が死ぬば・・なんとかなる』という目算がチョロチョロしている。さて、そういう事こそがまさに障害だとあなたたちは理解するが、
今度は、その理解がまたもや、悟りと言う「ごほうび」へ心を向かわせる。
だから、私は『向かうな』と言いい、方丈氏は『今を守れ』というが、
誰の心にも決して殺せないものが、ずっとそこに生き残っている。
それは「なんのために、そういう修行をしているか」だ。
それだけは方丈氏や雪渓老師すら、完全には脱落していない。
完全に脱落したら、彼らは本当に猫のようになるからだ。

だが、その時こそ、最も美しいことが起きる。
彼らは、完全に禅を忘れるのだ。忘れ去ってから、禅に戻ってくる。
その時、禅とは、単なるジョークになってしまう。
そして、無数の別のジョークの存在に気がつくだろう。
無数の別のジョーク、、、それは万物すべてだ。ただし、これはあのEO氏の虚無主義の宇宙論におけるジョークというニュアンスではなく、光明という次元でである。

さて、『・』が起きたのは、禅師ばかりでなかった事を覚えておくと良いだろう。
たぶん、特攻隊の操縦士にも、墜落の寸前に起きた者がいることだろうし、
世界中の無数の人達にそれは起きて来た。
そして、その人達はたぶん『・』を悟りだと思わなかったことだろう。
では、彼らは『・』の真っ只中で、何が起きたと思ったのだろう?。
解脱、ニルヴァーナ、そんな用語すら知らない無学な彼らは
自分に起きた『・』を一体何だと感じただろう。

それが、『しあわせ』のなんたるかだ。
私は、本当に厳密な意味で
『・』を『しあわせ』と呼んでもいいと、近ごろ痛感している。
その方が、よほど適切なのだ。
あまりにも一般的用語であるが、むしろ悟りなどより、それは
はるかに『そのものの状態』を言い得ているからだ。
ただ、それが冷めない幸福であるという点で、それは、ひとつの神秘なのである。
私が、ここ数回の原稿で、極端に強調するのは、
『・』=しあわせというものだ。
そして、無価値と絶望の方便、いや方便としての絶望でなく、本当の絶望だけが
それを美しい結末にすると断言し続ける。
だが、この断言故に、またもや、人々が苦しむ。
このように、繰り返し、人は抜けられない自己監視、反省の中で、
その反省を殺せと言われ、たたかれ、そして苦悩する。
これが過去の禅の方便だった。
絶対に自己を持ったままでは到達など不可能な目標のニンジンを鼻の先にブラ下げて、尻をたたき、ついには、諦めてしまう。
しかし、それで『・』が起きたら、それも変だ。
求めていたものを諦めたら、得られる、などという、
そんな『無為のごほうび』の獲得ゲームなどの次元の問題ならば、
禅でなくともスポーツ選手や武術家だって、言われなくとも分かっていることだ。
だから、彼らは自我と無我を揺れつつ、なんとか無我を100パーセントにしようとするが、まさにその努力そのものが自我そのものである。
こんなことも、あなたは分かり切っている。
方丈氏に「求める事なく座れ」と言われれば、
それは出来る。その、『俺はそんなことは出来ている』、というまさに、そこに
出来ていないものがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私が座るとき、私は自分が、何がいいのか、悪いのか、分からない。
私にとって、ただ座るとは、ただ座る修行ですらない。
本当の馬鹿になってゆくのが私の座禅だ。
ちょっと、利口になったかな?、と思うときが、私の座禅タイムである。
その時、私は全然、なにも分からない。
知的な定義も出来ないし、境地が浅いだの、あまいのか、いいのかも分からない。
ただ、私は、その時、微かに、笑っているだけだ。
うれしいし、楽しいし、そのまま死にたいなぁー、といつも思う。
死に憧れる、などという心は、あの日、とっくの昔に死んだが、
だが『死をにっこりと迎える状態』には、今でも常にある。
ときおり、気が向いて、自然にただ座ることは、
私にとって、『楽しいこと』『幸福のお時間』なのである。
私と禅との決定的な違いはそれである。
楽しくないもの、つらいもの、幸福感に満たされないものは、もう人の役にたたない。最後は放下するにしても、最初は、つらい修行が絶対に必要だと修行者が言うが、
そうしたら、その者が欲しいのは、
つらい努力のその成果という、またしても達成ゲーム、そして
採点ゲームだ。それはあくなき「見返り」への欲望だ。
それは、取引だ。商売だ、バクチだ。勝ち負けなどあったら、それは賭博だ。

困った事に、寺、法、師が、またもや、学校と同じような次元の成績をつけて、点数を生徒につけて、悟り大学への受験のようにしてしまっている。
私が、何度も、EOは、人の心を殺すぞといったのは、
まさに、『そこを』殺すからだ。
偉大な目標に向かっている、意義がある、無我になろう、ただ座ろう、
その根底にある、根底にふんばっているのは
禅での『良い子』になろうとする心だ。
だから、私はその努力のプロセスすらも、いきなり蹴飛ばす。

ただし、このやり方は、方丈氏に言わせれば
『それは、むちゃだ。まず嘘でもいいから工夫からだ』と言い、
雪渓老師も、『行ずることなくは到達できない』、と言うだろう。
しかし、だが、その終焉は、『どこへ』到達するというのか?。

そして、あなたたちの通った、その道は、何千万もの比丘たちが通った。
しかし、
30棒の仕打ちや、ティロパとナロパのような最も親密な師弟関係でおきていたのは、それは努力指向の心そのものに対する虐待に次ぐ、虐待だったのだ。
覚えて、おくといいが、
私は、この短い生涯において、門下の誰にも『でかした』とは言わない。
そんな事は、本人に起きれば、他人から言われる必要などないからだ。
そのかわり、『まだ駄目だ』、は連発し続ける。
本当は、とっくに悟っていても、まだ駄目だと言ってみたりもする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、話の要点が、また、ずれたな。
・・・・・・

だが、・・しかし、
私の作業は、古典的なものではない。
禅で、確実に結果が生まれていれば、私は口出しをしていなかったからだ。
私が、禅と最も異なるのは、・・・・
言葉が消えたので、別の話をする。
*********・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・
やみくもに、新しければいい、というものではないが、
だからと言って、古いままでいいなどという論理はどこにもない。
私が、徹底的に、生涯、生きている限り、
あらゆる嘘や策略を投じても働き掛けるその理由は、
その私の根拠、衝動のすべては『方便の開発実験』である。

あなたは、再び、私と共に大学の実験室にいると思えばいい。
ただし、今度は意識の『原爆』を作るのである。
達成欲を殺すための仕掛けを作ることは、
結局『自滅の科学・滅びの美学』なのだから、これこそ、やりがいのあるものだ。

私には、あの日から、その最も根底にすら、
善というものがなくなってしまった。
それゆえに、私は何からも自由だ。
世間的なつまらぬ体裁を私も繕うが、
それは、あえてむきになって逆らう価値すら、そこにはないからだ。

だから、私がある程度、入れこんでムキになっているかのように振る舞うものは、
すべて、私が目をつけたものだけだ。
ただし、そこに価値があるからではない。
何千回でも言うが、、その動機は、
そこに、それぞれの個人たった一人の『幸福への道』があるからだ。
それは正しさでも、禅の合格通知の為でもない。
*********
かつて、『巨人の星』というアニメで禅寺が出てきたことがあった。
こんな場面だった。主人公が完全に行き詰まって、川上監督に見習って禅寺へ行く。
座るが、どうにも何度も打たれてしまう。
主人公の星飛雄馬は『なんだって、俺ばっかり、こんなに打たれるんだ』と思う。
老師が言う
『そこの若いの、よく打たれるのう・・・ほっほっほっ』
何くそと意気込むが、また打たれる。
老師曰く
『打たれまい、打たれまいとするから打たれるんじゃよ。
打たれまいとするよりも、打たれて結構、、、いや、もう一歩進んで、
打ってもらおう、という心がけにしてはいかがか?』

これで、例によって背景が変わり、『ガーーーーン』と効果音がなる。
それが、ご存じ、大リーグボール1号のヒントとなった。

EO『悟ろう、悟ろうとして、今を守り無我になろうとするよりも、
悟れなくて結構、いや、もう一歩進んで、駄目だと言われようとしてみなさい』

******************
花形が、あるとき、梅の花を眺めていた。
恋人が彼を去り、彼も恋人をあきらめ、それを称して、監督が
『お互いに、共に消え去り、みごとな消え去り方やのう』
・・・・これまた、
ガァウーーーーンと効果音が響き、目が白くなり、
かくして大リーグボール2号の秘密は解かれた。

EO『いくら消そうと思って無我の闇を自分の回りに土煙のように立てたって、
「本人が」闇にならなきゃ、完全に消えるまい。
意識の足が高く脳天に上がるとき、
黒い闇が飛んで来て、黒い闇に止まる』

******************
お京さんが、リンゴを左門に投げた。
小指の神経が切れていたために、それは、ぎりぎりの最低の力の投げ方だった。
かくして、星、またもや『ギョワーーーン』となり、
くしくも、彼は、「竹やぶ」にこもること、一晩。
大リーグボール3号の完成であった。

それは、『そら、打ってください』といわんばかりの超スローボールだった。
このボールが打てない原因はたったひとつだった。
あまりにもその球は、
無抵抗だったのだ。
まるでプールの水中で、たゆたっているボールを打とうとしたら、全部チップしてしまうか、バットを乗り越えてしまうかのようなものだった。
歴史上最も遅いボールが、パーフェクトゲームを生んだ。

EO『これが死人禅である。無力、無抵抗、たゆたう、』
しかも、そのボールは死人のような顔で星によって淡々と投げられた。
しかも、コントロールという点では、めちゃくちゃ不安定だった。

******************
大リーグボール1号は、公案禅である。
どうしても質問というバットをかわせないなら、
質問そのものに、こっちから、当たってやろうじゃねぇーか、というものだ。
質問と共に自滅することに、そこに抜道がある

大リーグボール2号は、まさに道元である。
ボールも、周囲も土煙で、保護色となって消えて双方脱落である。

大リーグボール3号が死人禅である。
結果として、無理な投方が祟って投手生命は断たれる結果となったが、
それはアニメでの話。

最初、星一徹は、我が子の投げる魔球3号を
『バットをよける変化球だ』と断定した。
すなわち、方丈氏は、EOの球を、
巧妙に理屈でかわすという、「変化球」を投げているのだと思った。
だが、いずれ、彼は、それはいかなる『変化球』でもなく、
バットを避けようともしていないと分かるだろう。
それは、空気抵抗という自然の摂理によって『避けてしまう』のである。
ボールが避けているのではない。他人が打とうとするから、打てないのである。
では、ボールが何をやっているかと言えば、
よたよたとして、、出来るだけ何もしないで、気迫という点では最低の状態で、
キャッチャーまで到達しようとしているのみである。
*********・・・・・・・・・*********
とつぜんに、今夜の提唱は終わる。


1994 1/21  

『はて、私は、ご飯は、もう食べたのかのう??。』EO

うすのろ まぬけ

ちゃんと、理屈を究めないから、禅師たちは、心の奥で理屈に取り付かれる。
ちゃんと性、俗、貪欲さ、知性、理屈、悪、そういうものを究めないから
あなたたちは、最後の土壇場で、駄目になり、修行がただの一歩も進まなくなる。

理屈がゼロなら、それだけで、ただそれだけで、そこはもう『・』だ。
だが、自分が『・』に至らない、などと自覚するならば、そこに理屈がある証拠だ。

禅師は理屈を迷いと言うくせに、禅の理屈となると、ポイポイと、よくこきおるわ。
そんなことだから、理屈の抜けない修行者や、理屈を否定しながらも、「否定するという理屈を背負う」めくらばかり、育てるのだ。

以前に私は言ったが、あなたたちは、気付きという座布団を10枚ためて、達成しようとしている。まるで『・』を量的なもののように誤解している。
小さな禅的な経験を「蓄積して」、やがてそれが育つと思っている。
だから、そういう間抜けなことを言い続けるから、
私は『座布団をひっこぬく』と言った。床の上に座布団なしで座る一人の落語家。
それだけが我々の本来の面目だ。
寺臭い座布団など、引っこ抜いてしまえ。

禅のやり方はこうだ。
現在の事実にいることによって、前後を忘れること。
そこに、なんら間違いはない。間違いはない。
ただし、足りないのだ。
今の事実をただ守ることによって前後脈絡を破壊しようとするのは、それは正しい。
私は「間違いだ」とは言っていない。足りないと言う。
あなたちのやりかたは、道のきっかり50パーセントだ。
では、その50パーセントも足りない後の残りはなんなのか?。
それが理屈の破壊作業だ。

もう一度言う。
禅は、今にいることで前後裁断する。

EOは未来永劫に前後破壊されて、
行き場は、今しかない。それは彼が向かって到達したのではなく、
たったひとつ、『残された場所』だ。それは自然に残った場所であって、練った場所じゃない。
決定的にこの差が、禅と私の間にある。
いま、ここ以外の前後の行き場を前後完全に、永久に破壊された者と、
破壊もされない前後の未来をもったまま、今に踏ん張ろうとする者の違いは、
決定的に巨大だ。

私は自分を偉大だなどと言ってはいない。
その二つのプロセスの『違い』が巨大だと言っている。
優劣の問題ではなく、性質が違うのだ。
では、その前後とはなんなのか?。今の事実になりきって、裁断しようとしても、
チョロチョロ修行者を誘惑する前後、すなわち過去や未来とはなんなのか?。

それが価値なのだ。それがあなたたちの人生、世界、宇宙への夢だ。
ただし記憶そのものは、迷いではない。そうではなく、過去の中から、価値あると勝手にあなたが選別して、良い経験だったと思い込んだものだけを保存したり、または、
この今の現場に持ち込もうとするのが、価値観の働きだ。
どこかで禅や仏教を支援する心が残っていたら、それがもう時間を生み出す。
それは禅や仏教がどんなに、形式や伝統を正当化しても駄目だ。
今の中には前後や歴史はない。それは、完全に例外なくである。

ならば、今の事実を守ることで前後裁断する方法も、それはそれでいいが、
のっけに前後を裁断して、今しか残らない方法があるだろう。
この方法は、おうおうにして、
失敗した場合には、自殺者と発狂者を生んで来た。
だが、20年修行するよりも1年でカタが着く。

あなたたちの、前後という世界を作り上げているのは、あらゆる価値、哲学、
そして常識、宗教、世俗的な価値観、なにもかもだ。
価値観とは、何も大袈裟な哲学的な問題じゃない。
日常のごくささいな礼儀の中にさえもくだらない価値観や善悪が無数にある。
まったく世俗の会社、テレビ、おしゃべりの中に無数の価値観と善悪がある。
何も大袈裟なものではない。そして寺の中にもくだらない価値観がある。

本当に、それら一切に絶望したら、あなたは、やっと道となる。
だが、その絶望のためには、50パーセントは知性を使わなくてはならない。
なぜならば、あなたのその希望が知性で作られたのだから、
あなたの絶望への道もまた知性によって作られ、それによって希望を対消滅させねばならない。

禅が、中途半端に、この前後世界、価値観、夢、希望を、実に中途半端に放置したために、馬鹿げた修行者を生み出してゆく。
禅は、あまりにも脳が、うすのろだったために、知性や論理を避けてしまった。
ダルマの「結果」としての『今』をいきなり押し付けるから、こういうことになる。
では、問題はそのダルマや釈迦が『今』に至った原因はなんであるのか?。
それが完全絶望だ。そのあと一歩先は、自殺以外に選択の余地のない場所だ。
これが決定的な『・』への道になるのは論理的にも当たり前だ。
というのも、夢や希望は時間の脈絡の中でのみ形成されるからだ。
禅は、今への気迫力で脈絡を切るが、
大元の逃げ場としての前後が、完全にお先も、お後も真っ暗にされたら、
人は、今以外に、嫌でも、修行などしなくても、そこしか行き場があるまい。
『・』とはあくまでも、『結果』なのだ。
禅師の中には、文書または実際に会ってEOを知って、
こいつは悟っているのか?、と推測するらしいが、
そんな事は、私の知ったことじゃない。だが、ひとつだけ、はっきりしている事はある。もしも、私が今、ここで悟っていないのだとしたら、
私は即刻自殺しているということだ。私は絶対に存在していない。
「あんなもの」を体験して、誰が正気を保てようか。
『あんなもの』を実感して、誰が夢など、過去や未来への希望など持てるというのか?。曲がりなりにも、自殺せずに、今、生きているということそのものが、
私が『・』にいる証拠である。
そんな、むちゃな論法はない、といいくさるのならば、
そういうあなたたちを、あの宇宙の外側にほうり出したいが、・・・。
そして、全宇宙が、全くのただの動きにすぎないという事実、そして、あなたたちが、自分を考えるのも嫌になるほどの宇宙の巨大さを体験させるのは、困難だ。
あれは、この宇宙の最低の地獄だ。だが、その最低の地獄に向かうならば、
少なくとも、今の事実に成り切るだけでは、半分不足している。
残る半分は、前後の破壊である。
この2つを同時に、あるいは交互にやらず、
片方のみでゆくから、あなたたち禅は失敗し続ける。
そしてそのもう片方は、あなたたちの嫌う「思考」を使わねばならない。
その作業は無心では、駄目なのだ。
その為には、座禅の中に、もっと大切な問いを持ち込ませることだ。

まず、それはこうだ。修行者に与える知的な問いだ。
安易に禅の境涯で逃げてはならない。理屈はないなどと嘘をつき続けるから、こういうことになったのだから、理屈にちゃんと真っ向から向うべきだ。
そして、その理屈、問いは、ちっとも難しいものじゃない。
それはこうだ
『あなたは、なんのために、修行をしているのか?』

さぁー、どうする???
「今を守るため」と言うならば、それは何のためなのか?。なんのためとは、つまり、あなたはそれでどうなりたいというのか?。あなたの修行の動機を問いかけている。

「なんの為でもない」と本心から言うなら、あなたはとっくに悟っている。
だが、あなたの内心は
「なんのためでもない、という只の境地のため」なのだ。
では、その境地、意識、その生き方、今、なんでそれを修行するのか?。

あなたはここでこそ、へ理屈を言うべきじゃない。
全部それは『あなたの目標とする別のあなた』の為だ。

「別人ではなく、本性に帰るのだ」とこれまた、理屈を言うが、その本性とやらは、
あなたにとっては、充分に別人的ではないか?。

まず、自分の目標指向を認めることだ。
禅師ぶらず、私は『求めている』と認めなさい。
さて、そこからなのだ。
では、何を求めているのか?。
今か?、悟りか?、楽であることか?、対象はなんでもいい。
なんでもいいが、どうしてそれを求めるのか?。
それが得られたらどうなるのか?。
なんのために得るのか?。
別に宇宙を哲学などしなくていいが、
とにかく、あなたの確実に落ちない目標意識は、それはなんのためなのか?。
いまだに、修行しているならば、目標があるはずだ。
では、その目標そのものの目的、意義はなんなのか?。
全く無価値だと思うものに、あなたは向かっていると嘘を言うつもりかね?。
たとえば、あなたは、切手の収集なんかするやつは馬鹿だと思っていたら、
あなたはそういう事をやるかね?。
あなたが、馬鹿げていると思うことは、頼まれてもやらない。
ところが、あなたは頼まれもしないのに修行しているということは、
何かが、欲しいわけだ。たとえ無欲であれ、無欲が欲しいのだ。
いいだろう、とにかく、あなたは何かが欲しいのだ。
では、なぜ欲しいのか?。
どうして欲しがらずにいられないのか?。
あなたが、もしもそれを欲しがらなくなったら、
あなたは、まったく平凡な人になり、あなたの10年の人生はパーだ。
あなたは、自分の人生をパーに、無価値にしたくないのだ。
そんなことだから、趙州は言うのだ。
『捨てられないのならば、ずーっと、持っていろ!!』

誰も、あなたを苦しめているわけじゃない。
あなたは捨てたくないのだ。それを私が捨てろと言っても無理だ。
ふりぐらいは出来ても、依然として、あなたは取り付かれる。
だから、しっかりと価値観と意義と目標を、しっかりと持っているとよい。
妄想、迷い、達成欲、ひとかどの者になりたい欲を、しっかり持っていなさい。
ただし・・・・・
そのあなたが持っているものについて、
徹底的に、考えなさい。ここでは、無心は駄目だ。
徹底的に、なぜ、なんのため、何に向かう修行で、どんな意義があるのか、
理屈、論理を私に述べなさい。それを座禅や無心の中に隠してはならない。
全部、私にぶつけなさい。そのあなたの価値観は何か??。私に説明しなさい。

1000もの禅や無心や悟りの素晴らしさと、
私の体験した絶対虚無宇宙のどちらが勝つか、
一戦、交えてみようじゃないかね?。

私は未来永劫、そして過去も、
全部の希望のフィルムを焼かれた。
だから、私は、フィルムの入っていないただのレンズのようなものだ。
あなたたちの最も大きな障害は、ひとこま、ひとこまという今の事実に着目するのだが、フィルムそのものが焼き払われていないということだ。すぐに逃げる過去や未来というフィルムのコマが前後にある。
私には逃げたくても、何もないのだ。そこは前後真っ暗だ。

「心中」の問題に限れば、
EOという者は、風が吹いても首が落ちるほど、首は皮一枚だ。
私は、まったく半死半生だ。
禅師が、私をののしれば、さっさと私の首は落ちる。
結構なことだ。
さぁー、殺してみろである。さぁー、境地が甘いと言ってみろである。
私の境地など、コロリだ。
だから、誰も私を罵倒できても、私本人に、怒りや屈辱を生み出すことは出来ない。
たとえ、肉体が誰かに殺されても、私は、ただ本源へ帰るのみだ。
私は一向に構わないよ。
ただし、あなたたちにとっては、私からの法が絶法になるだけだ。
損害は、ただ、それだけだ。
私には、私自身に対する利害関係は、何もない。
そこに利害関係があるのは、あなたたちだ。
私の命は、あなたたち次第だ。

風が吹いても、我が首は落ちるだろう。
生首をのっけて、私は歩き、生きる。
首、それは境地だの、理屈だ。
いくらでも切り落とすがいい。
死んでいる者に勝てる者は誰一人いない。
それは死人が強いからではなく、死人は生きていないからだ。
死の方が生よりも、圧倒的に普遍的だからだ。

この「ギリギリの生」というものをあなたに公案として渡そう。
ギリギリの生とは何か?。
本当に、もうギリギリの生とは何か?。
座禅をしていて、寺の事や、師からの評価や、世間や、あるいは悟り、仏法、そういう思考が、ぎりぎりの生の者に起きるかね??。
ギリギリの生、あとはもう死ぬのみのギリギリの生というものを、
ちょっとは想像してみるがいい。
何も、なされる事も、何も目標もない。
何も答えられず、何にもなる必要もない。
なぜなら、あと死ぬだけだからだ。
ギリギリの生、かろうじて生きているという、最低のあなたの姿を想定しなさい。
その最低に、なんで、禅やら、修行やら、が存在できるというのか?。
自分を路上に倒れた、乞食だと思って、
その死期を思いなさい。
そして、もしも、あと、10秒で死ぬとしたら、
誰が、そこでジタバタするというのか?。
出来ることなど何もない。
恐怖するとでも言うのか?。
恐怖すら無意味になるのに、何を恐怖するのだ。
安心するというのか?。
安心もあと10秒で消えるのに、それにしがみつく事になんの意味がある??。

想像しうる、あなたの最低状態とは、もはや僧侶としては無論のこと、
世俗の人間としても最低であり、餌もとれない瀕死の動物のようなものだ。
まったく白痴的に、そこに存在する、超馬鹿者だ。
しかも、自分を馬鹿とすら思えないほどの脳に落ちた、ギリギリの生だ。
このギリギリの生、まったく、ただ、かろうじて生きているのみの状態。
その連続、、それ以外に何もない、
それが私だ。
そこには仏性も禅も悟りもない。
それゆえに、
誰も、私には勝てない。
私は別に落ち着きを良いとも思っていない。
あなたたちは、落ち着きのない時の私を見たら、「なんだ悟っていないやつ」だ、と思うだろう。それ故に、あなたたちは不幸だ。何かを良い、何かを悪いと言って、自分の首を絞めてゆく。一方、あなたたちに批判された私は、一向に不幸になれない。
あなたは他人から境地が浅いと言われればムキになる。
私は、境地を云々言う者を見ると、
今だ境地にこだわって、一生哀れなやつだ、なんとか助けられないものかと、
あなたたちが、かわいそうになる。

バグワンはかつて、『自分ほど悟っている者は世界に9人しかいない』と、大きな事をタレたようだが、私は言う。
『私ほど、史上最低の悟りにいる者は、世界にあと1人しか知らない』

とにかく、禅は、それなりの理屈の上に座っている事実を認めるべきだろう。
理屈を越えた体験の上に座っているのも確かだが、
それが完全ではないのも、事実だ。
ちょうど禅は、『半々』なのだ。世俗は理屈だらけだ。
そして、あなたたちが歩いている無心と有心という
その自然な二本の足の存在を無視して、無心だけで走ろうとすれば、
それは必ず、不具者を生み出す。
だから、まず思考を究めて、
あなたの修行は、世界のなんのために、あるいは「あなた本人の」なんのためかを
分析しなさい。
もしも、幸せや、安心、そしてEOの言う言葉を借用して『死の為』というならば、
なんのための幸せか、どうして安心でなくてはいけないのか?、死ぬときに、
別に安心でなくてもいいじゃないか、と、あらゆる可能性、反論、持論を考えなさい。
私の、最大の楽しみは、

一人の座禅者を生むことではなく、

一人の廃人を生み出すことだ。

あなたが自分で、自分の希望を壊せないならば、
私が手伝ってあげよう。
私だって、単独で自分一人で、未来と過去を破壊したわけではないからだ。

あの宇宙人たちが、私を絶対の暗闇に追い込まなかったら、
未だに、私は、
結構な、価値観とやらの夢の中に住んでいたことだろう。

未来永劫、2度と私は希望を持たない。
この宇宙は、最低だ。
その最低に囲まれて、私はどこへ行けばいいのか?。

私には、行くところなんかどこにもない。だから、私は
あの日、あの瞬間・・たった、今、ここに引き戻されたのだ。

私には、ただ今、ここが、目標だったのではなく、
今、ここが、私が死ぬまで抜けられない監獄、至福の、
死のベッドになったのだ。

即佛録

ある冬の朝、旅人が無名庵を訪れた。
その折の問答
旅人「20年を修行に費やしてきましたが、一向に解りません。
まるでこの冬の空のように、なにもかもどんよりとし、以前に解ったと思っていたことも、以前に悟ったものも、もはや曖昧で、どうしたらいいのか、
何もかも全く解りません。どうにか、なんとしてでも悟りを得たいのです。」

無名庵『あなたがそれを得たいというからには、その悟りがどんなものか見当はついているのかね?。たとえば魚を釣りたいと思っているものが、そもそも魚がどんなものか知らなかったら、いざそれが釣れても、あなたはそれを捨ててしまうかもしれないよ。一方、タコを魚だと思っていたら、違うものが釣れても、それを魚だと思ってしまうよ。つまり、どんなものだと見当をつけているのかね?』
旅人「無上の静寂。こだわりのまったくないこと。怒りのないこと。迷いのないこと。時には、大歓喜。あるいは心身脱落。淡々とひたすらひとつことに成り切ってゆくことの充実などです。」

無名庵『それだけ釣り上げておいて、その上何が不満なのかね?』

旅人「はい、私の師はそういうものは全部違うと言いました。あるいは、あるときには、それだとも言い、ある時には、それも捨てろと言い、それでは私は、どうすればいいのか、全く解らないのです。それに、悟りとは、まったく囚われない自由だと私は見当をつけています。そしてそれが絶えることのないものになるのだと見当をつけています。」
無名庵『それだけ見当をつけているならば、どうして悟りに囚われるんだね?。囚われないことがそれだと見当をつけているならば、悟りへの囚われから自由になるべきじゃないかね?』

旅人「はい、でもそれが出来ないのです。僧侶になる前には、私は世俗の問題で、様々に囚われて苦しみました。そして僧侶になりましたが、今度は悟りや僧侶であることの目的に囚われています。結局囚われという事では、全く私はなんの進歩もしていません。ですから、もう全部の囚われから離れたいのです。
囚われないことが、また私の目標になると、それに囚われるのです。だから、どうにもならなくなって、ここへ来ました」

無名庵『囚われるとか、囚われない、あるいは少しは悟っていたとか、悟っていないという、その区別をあなたはどうやって自分に対して行うのかね?』

旅人「心が静まっている時、しかもテキパキと迷いなく物事をこなしてゆくとき、あるいは、しみじみと物をありのままに感じているとき、全く囚われなくすべてが力みなく、しかも全体に注意深くなっている時は、それでいいのだと思います。一方、雑念がとりとめなく暴走したり、人の言葉に怒りの心が動いたり、ぼーっとして、現実が曖昧になったり、頭で理解しようとしたり、躊躇したりするときは、違うのだと思います」

無名庵『さて、問題は、そこだよ君。
なぜ、そういう言う状態を駄目だと断定するのかね?。
いいかね。世の中には、駄目もいいもない。
そこにあるのは、苦しいか、楽であるかだけだ。
君は悩んだり、囚われたまま、自分の解き放てないこだわりから抜けられなくて苦しいから、そこから抜けたいわけだ。あなたを動かしているのも、あなたの最初の求道心も、けっして複雑な問題じゃない。あなたは苦しみたくなかったのだ。違うかね?。苦しみとは、何も苦痛のことばかりじゃない。
たとえば、物事に対応出来ないのも苦しみだし、失態も苦しみだし、他人からの軽蔑も苦しみだし、退屈というものも苦しみだ。また理解出来ないというのも苦しみだし、また悟れないというのも苦しみだ。
世俗にいた君は、そこにいたときは、なんの問題もなく生活していた。
ところが、君はたぶん、こういう事に気が付いたのだと思うよ。
つまり、周りがどうあれ、苦しんだり、悩んだりするのは自分の中での事だ。
だとすれば、理想的な環境を作り上げることではなく、自分の内面をなんとかすれば、環境に関係なく苦しみや悩みから自由になれるはずだと。
それはつまり、悩まないこと、苦しまないことだと。
しかし、世俗は言う。悩め、苦しめ、それが人生だ。努力して苦労しろ。
そうすれば楽もあるさ。と。、、だが、
そのちっぽけな、まるで酒場の酔っ払いの言うような人生哲学が、なんの効力もなく、世界や人々をいっこうに進歩させず、いっこうに彼らはちっとも幸福ではなく、80まで生きても、全く彼らが子供じみているのを見て、たぶん、君は根本的に何かが違うと思ったはずだ。
また、それは彼らの問題ではなく、あなたの問題でもある。
あなたもこのまま行けば、悩み、苦しみ、努力して苦労して修行しても、
結局は、楽なんか来ないと思っているはずだ。
師は、ひたすらやれば必ず起きる。とあなたに言うが、あなたは、それを完全に疑っている。それは当然だ。師がなんと言おうが、あなたがあなたに不満なのだから、いくら修行が足りないとか、やる気がないと言われても、何年も修行して、余計に悟りという別の囚われに囚われて行ったら、なんのための修行かわかったものではない。そして、また、そういう欲を出さずに淡々とやればいいのだと決めて、淡々と僧侶の務めをやる者は大勢いるが、さりとて、彼らに悟りが起きてはいない。ただ、寺で年老いた、ちょっとばかり腹の座った、囚われないふりをしている年寄りの職務的な住職になるだけだ。
君の求めているものは、完全な自由の筈だ。
内面的な、完全な軽やかさ、しなやかさ、穏やかさ、瞬間的な対応、無心のままの行為、そして一生それが続くことだ。
絶えず、それがどんな瞬間にもそうある事を求めているんだろ。違うかね?。』

旅人「はい。そうです。それが大悟だろうと見当をつけています。しかし、
その為には、工夫になりきり、何事も認識者が消えるまでなりきれと言われましたが、なんども認識者があらわれ、自分に是非を言い、これでいい、これだと駄目だと言ってしまうのです」

無名庵『だから、それは何を基準に是非を言っているのかな?。それは決して禅の世界の基準ではないのだよ。もっと、事を明らかに、単純に捕えてみなさい。禅という眼鏡や師の言葉にまどわされてはいけない。もっと率直に見てみなさい。あなたの是非判断は、あなた「本人が心地よいか落ちつきなく不満か」の問題だ。
どんなに師があなたを『よし』と1000回言っても、あなたが満たされなくて、何かが足りないとずーっと思っていたら、あなたはそんな寺を出てしまうだろう。
師の評価などなんの役にも立たない。あなたがいいのか、悪いのかは、あなたが一番よく知っていることだ。もしも師があなたを認めて、それで満足するとしたら、あなたは僧侶ではなく、寺という会社の社員のようなものだ。それはただの社会的な昇進にすぎない。だが、あなたはたとえ誰になんと言われても、あなた本人が満足しなかったら、満たされはしない。
たとえば。私がここで、あなたを、誉めたたえて、よく修行された、たいした境涯に達しているなどと10万回言っても、あなたはちっとも満たされはしない。それどころか私をめくらの馬鹿だと思ってここを立ち去るだろう。
では、あなたの求めているものはなんなのか?。
それは大悟とか言うものだろうが、しかし、師たちの言う工夫とは実は、こういうものだ。
***こんな小話をしてみよう。***

{この焚火の中に宝石がある。それをこの枯れ枝で捜し出してみよ}と師が
あなたに言う。
あなたは、宝石を探して、焚火の中を掻き回す。
そのうち、枯木がだんだん焼けて小さくなってしまう。あなたは言う。

{探すにも枝がもうなくなってしまいます}と。

すると師は言う{いいから、そのまま続けろ}。
やがて、あなたの枝はなくなってしまう。
宝石も出て来ない。あなたは駄目だったと知る。そして師のところへ行ってこう言う。
{工夫によって、宝石を探そうとしましたが、工夫の心もなくなってしまい、もはや僧侶としても私は無能です。宝石も見付けられないばかりか、その手段の工夫もなくしてしまいました。なんのために、こんなことで人生をすごしているのか解りません。もう明日、俗に戻ります。}

師は言う{いま、どんな心境かね?}
あなたは言う{もう、どうでもいいです。宝石もいりません。}

師は言う{いいでしょう。あなたの人生だ。身支度は急ぐことはあるまい。明日でよろしいから今日は、のんびりしていなさい。作務も、なにもしなくてよい。}
あなたは、のんびりする。いつもなら、せわしくしているが、明日で寺を出るあなたにもうやることは何もない。絶望もそこにはない。あなたが何かまだ心残りがあれば、あなたは悲惨な気持ちになるだろう。だが、完全に諦めている者に絶望はない。あなたはもうやる事はない。ただ、明日までのんびりするだけだ。
日ごろ当たり前だった、いろいろな寺の音が聞こえる。外ではカラスが鳴いている。なにもかも、当たり前だ。
下山するあなたにすることなど何もない。あなたは完全な敗北者だ。
宝石もなく、枝も捨てた。
あなたは、最後の思い出に、ちょっと禅堂で座る。だが、もうなんの工夫もしたくない。あなたは、ただ最後の座禅をする。それは座禅ですらなく、ただの休息だ。いつもの禅堂の部屋の香りをあなたは味わう。

師が言う{ところで、明日以後は君は何か職のあてでもあるのかね?}
あなたは言う{いえ、全くありません。明日のことは、明日決めます}
師は言う
{どうして、いままで、そういう気持ちで座禅が出来なかったのかね?}

あなたは、なんとなく、師のこの言葉を聞き流す。
もはやそんな、説教じみた言葉も馬鹿馬鹿しく思う。
そして、あなたは、そのまま、ただ座る。

夕食後、あなたは師の部屋に別れの挨拶に行く。
すると師が言う
{はて、そなたは、10年後には、どこで何をしとるかのう??}
あなたは言う{さぁー、そんな先は知りません}
師{ほーう。ならば、そなたは、3秒先は何しとるのかのう?・・・ん??}

あなたは黙ってしまう・・・。
師{明日も、10年先も、3秒先も、みんな、同じ、今ここにない「明日」じゃろ・・
師は、茶碗を指さしてあなたに言う。
『これを、
言葉を用いず、
叫びをも用いず、
1寸の身体の動作をも用いず、
瞬きひとつの表情も、笑顔をも用いず、
そして、沈黙をも用いずして、
さぁー、これが、なんであるか、言ってみよ。』

あなたは黙る。
師は言う{私は、沈黙をも用いずと言ったぞ。さぁー、早く言え。}

だが、あなたには、もう探す枝もなく、探す宝石もない。あなたはただ黙る。
発声も、動作も、表情もなく、しかも黙っていてもいけないのでは、
あなたにはなすすべは何もない。
とうぜん、黙っていては、失格だが、あなたはもう失格でも結構な身分だ。
そのままあなたは失格する。

師は言う{こんな事に答えられないのでは、結局、
そなたのここでの修行は全部、無駄じゃったのう・・}

あなたは、そのまま座っている。
師は言う
{さぁー、もうよいから、部屋へ戻りなさい}

ところが、あなたはじっと茶碗を見たまま、そこに釘づけにされてしまう。
沈黙が続く。
そして、あなたは、立ち上がって、立ち去ろうとする。
一礼して去ろうとすると、背後から師が言う
{これこれ、頭の中の茶碗を、ちゃんとここへ置いて行ってくれ}

だが、あなたは、ただ立ち去る。
あなたの中には問いなどない。
そして茶碗がなんであるかももうあなたは分からない。
ないものは、置いてゆけまい。あなたはそのまま立ち去る。

背後から、またもや師は大声であなたに言う
{おまえのような、最低の僧は、寺始まって以来じゃ。とっとと出て行け}

翌朝、あなたは身支度をして、師の部屋へ行く。
師は言う
{昨晩の問いの時といい、部屋を去る時といい、
よくぞ平常心のままでおったのう。そなたはこの寺始まって以来の最高の僧だのう}
あなたは、そのまま無言で立ち去る。
あなたには、最高も最低もなにもない。その言葉の意味すらあなたは分からない。
師は言う
{そうだ、今を、ちゃんと守っているかな?}

あなたは言う{さぁー・・・?}

師{「さぁー」、と今、言ったのは誰じゃ?}

あなた{さぁー・・}

あなたは、門を出て、ゆく。
振り返ってあなたは言う
{老師・・}

師{なんじゃ?}

あなたは、言う
{さァー・・・?}

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以来、その僧侶は何を尋ねられても{さぁー?}と言ったと言う。

以来その僧侶の門下は無数の大悟者を生んだと言う。
その僧侶の説く戒律、与える工夫はただひとつだった。
それは、
何を尋ねられても{さぁー?}と
全身全霊で心の底から「さぁー?」と言えと言うものだった。
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無名庵『さて、あなたに尋ねるが、
この物語りの僧侶は、物語りのいつ、どこで、悟ったのかな?。』

旅人『たった、いま、ここでです』

無名庵『はて、そんな事を認識したら、それではないはずなのに、
認識しているのは、あなたの中の誰なんですか?』

旅人『さぁー・・・』
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