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EOからの手紙10・僧侶たちへ

わたしは、あなたに還俗を薦めているわけでもなく、またEOイズムへの傾倒を薦めているわけでもなく、別の体系を薦めているわけでもない。
私の薦めているのは、
人間からの脱落であり、人間社会からの脱落であり、万物、宇宙からの脱落であり、寺からの脱落であり、世間からの脱落であり、そして自分からの脱落でもある。
私が誘っているのは、何ひとつ価値も希望も残らない闇だ。
生きる希望など捨ててしまうがいい。悟る希望など捨ててしまうがいい。
さて、そうすると、捨て切れないものとして、まずあなたの肉体が残る。
そして記憶や経験が残る。
肉体を捨てることは、自殺を選ぶということであり、これまた心が選択するもうひとつの生であるから、それでは脱落にはならない。
記憶や経験、比較といったものも、あらゆる有用な機能をするわけで、その囚われの中で物事をやらかせば、ろくな事にはならないが、囚われを離れたところから、分別や記憶を無為に働かせることは有用である。

少林窟から発心寺への移動は、あなたにとっては、全く自然なことのようである。
少林窟では言う。「座禅は<我慢くらべ>ではないのですから」
EOは言う『いまの事実に目覚めることだって、<目覚め比べ>じゃねぇーんだぜ』

目覚めは、目指してはならない。それは目指して到達するものではない。
あなたが全部、絶望して、希望がなくなってしまえば、あなたは『いま、ここ』以外を失うのだから、嫌でも、なにもしなくても、どんな心理的な、あるいは動作と意識の工夫などしなくても、まるで釘で打ち付けられたように『現在の事実』以外に動けなくなる。だからEOのやりかたは、目標を据えて、今の事実へと覚醒するのではなく、
生命、希望、自己、人生、人間、神も仏も、忘却の彼方にあなたが死んでしまうことをまず優先させる。死ぬのが先で、目覚めは後だ。
そうしないと、いつまでたっても、僧侶やサニヤシンたちは、自分の努力でこだわりを落としただの、自分の座禅の成果として無心が増えたとか、たわごとを言い始める。
そんなことでは、決してあなたの自我は死ねず、またいつまでも微妙なくすぶる緊張と疑問と、なにかまだ足りないという不安を残す。それは死ぬまで何十年も続くだろう。

目覚めとは、単なる死の副産物だ。禅の言う今の事実も、ただひたすらも、覚醒した行為や観察も、すべてそれは結果だ。それは心の全面死の結果だ。
だから、まず事実にありのままにという禅の指示は、そこからまず道を踏み外す。
事実にありのままに、ただそのままに、というのは、あくまでも大悟したものの境地の副産物にすぎない。だから、その悟りの結果である様相を弟子に押し付けても駄目だ。

そんなことよりも、どうして大悟した者は、自分の通った苦悩、無常、疑問、狂乱、そういう、彼らの通ったプロセスを道にしないのだろう?。
結果としてのあるがままなど、押し付けても駄目だ。
そうではなく、導師が自分が大悟した本当のきっかけ、その瞬間の原因を見ればいい。
それこそが弟子にも同じ事を引き起こすものだ。
そのひとつは、伝統的なものでは、ただ座るだけだ。これが最も多くの大悟者を生んできた。わかろうがわかるまいが、無駄に時間をすごそうが、混乱しようが、とにかく座り続けること。これが伝統的な手法だ。そこで何かをつかむのでなく、座るだけ。
その中で、静寂点が現れる。それは求める以前の意識であり、現象世界以前の点だ。
ただし、座るにしても、あまり姿勢をシャンとすることは、肉体から脱落しにくくなるので、楽に座ることだ。呼吸などどうでもいい。ただ座るのだ。
さて、ここで雑念の問題が出て来る。
インドならば、雑念をじっとどれぐらいまでそこに存在出来るか見守れという。
禅のように切り落とせとは言わない。いいから、そこにあらしめてみよ。ながめてみよ。ただし、自分で考えるのではなく、考えそのものを放置して、どこまでそこに存在できるかやってみよと言う。そうすれば雑念などただの3秒も維持できはしない。

次にやってくるのが、思考の空白だ。だが、そこには皮膚感覚もあり、音も聞こえる。自分の体内の内蔵の感覚もある。だが、これらもまた思考と同じ外の世界の感覚であり、あなたの主人公じゃない。その存在感覚に目覚めていたとしても、それは主人公じゃない。それはただの自己の存在の自覚だ。では、その存在している自覚とにらめっこをしてごらんなさい。
自分は、ここに座っているなぁー、と。
そして、その時、意識を静かに脳天に上げ、
そこでただ意識とし自分がいるという自覚を感じてください。
ただいる。その感じがあるだろう。
では、思考も感覚も希薄になって、ただここに意識としての自分がいるんだなぁー、
というそのただの存在の自覚を、ただの一瞬も見失わないように感じ取り続けることだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
繰り返し、何度も、私はこの事をあなたたちに言う。
そんなことは、決して、できないのだ。
あなたは自分の存在を絶えず意識していると思い込んでいるにすぎない。
感覚や思考があるから、自分を意識や思考を続けていると錯覚する。
さて、それでもなお、反論者がいる。
その自覚は純粋な自己存在の自覚ではなく、結局は皮膚感覚による自覚ではないのか?。

これに対する科学的回答は、すでに数十年も前に出ている。
サマーディタンクと呼ばれる、外界から完全に遮断した水槽のタンクに横たわり、音もなく、光りもなく、濃度の高い液体で裸の肉体を浮遊させるという実験だ。
このほとんど限りなく刺激がゼロの状態でも、自覚というものは、存在する。
さて、なおも、それは内蔵があることによる、体の自覚にすぎないと言う反論もある。
だが、その実験の末路がどうなったかは、みなさんが知っての通りだ。
とんでもない世界への意識の移動、異なる次元への意識の旅だった。
それは内蔵の存在感などによる自覚ではない。
我々の意識は、肉体の信号なしでも存在する。
ただし、なおも、それは脳の記憶、脳の信号による自覚であるとの反論も言える。
しかし、さらに言えば、臨死体験者は、自分の脳波停止の後で、肉体から分離し、自分の死体がどのような処置をされて、誰がどう扱ったかを、あとで蘇生してから、医者に報告し、それが事実と寸分も違わないという事例もかなりあるのである。
となると、脳が我々の意識にとって知覚を生み出している器官ではないことになる。
脳も、目も耳もなくても、我々はどうやら、世界を知覚できるようだ。
さて、こういう話はすべて、これ以後は、神秘体験の問題になってしまうので切り上げよう。そうではなく、私が問題にするのは、存在の自覚は、禅のいうような、ただの感覚の中にあるのではなく、それらの肉体の五感や脳とは独立した体であるということだ。
座禅で脱落したとき、我々はただの存在感にいきつく。
だが、まだ先がある。
では、その存在感を維持しようとすると、それは途切れてパルスになる。
存在感がついたり、消えたりする。
そこで、では存在感を感じない一瞬の空白にいてみよ、と私は言っている。
これは、すでに人間としての最低の基本状態である自分の存在の自覚の、そのまた以前に戻れということだ。
さて、そこに在るものは??????。

そこは、ただの絶句だ。ただの呆然自失だ。ただの『あ・・』そして『これ』だ。

あなたの目付きは放心して狂った者のようになるはずだ。
焦点などなくなってしまう。
宙を見て、なにも眺めていないかのようになる。
そして、あなたの意識はかならずこのとき、頭頂かその上にあるはずだ。

これが私のいう悟りだ。これが絶えないことは、すなわちたえざる無知なのだ。
絶えざるあらゆる自覚や目的の放棄、絶えざる瞬間、絶えざる未知だ。
そこには断じて「やったぞ、これだ万歳」などという猿のような叫びはない。
ただ、すべてが静寂に留まる。

そして、これはいわば普通の瞑想だ。この方向は、意識の始まりへ戻る作業だ。
死人禅の基本公案はこれただひとつである。

しかし、これは発見しようとして向かって行き、その欲望が途中で消滅してしまうという手法による。

もうひとつの方法は、最初からくたばってしまうことだ。とっとと最初から自己否定、世界否定、存在否定、悟りの否定、意味の否定、希望の否定としての死へ向かうことだ。
そこには、もう悟りを開こうなどという中心すらない。
そのために、私は、部屋を真っ暗の暗闇にするか、押し入れに入るかして、真っ暗な中で世界も意識から消して、つぎに自分も消して、ただ全面的な消滅へ向かうように言う。
暗闇のイメージというものは、禅ではそもそもイメージを否定するらしいが、
できるかぎりの無のイメージというものは、有効な方便だ。
なぜならば、もしもあなたが小さな光でもイメージしたら、それは発展して思考やヴィジョンや動きを生むが、ひたすら周りも自分も無の闇に溶けてしまうというイメージを続けると、イメージしている主体もそのうち忘却されてしまうからだ。
数ある、無限のイメージの中で、ただひとつ、この絶対暗黒のイメージだけは、まったく発展のしようがない。だから、この絶対の不毛な墓場である底無しの暗闇を観想し続けることは、急速にあなたを無心にしてしまう。なにがなんだか、わからなくなってゆく。無の前には、いかなる存在も色あせてしまう。
あなたは、禅では、「生きろ」などと言われた。今の事実に生きろと言われた。
だが、あなたは今の本当の事実、本当の事実としての今とは、
この絶対暗黒の無であったことをやがて知る。
いま、ここには、そんなただの事実すらもないのだ
本当のいま、こことは、それは釈迦が力説した絶対無だ。

私はいくつかの座禅や瞑想や哲学の方便の道を試してみて、
どうやら、修行の本質はこの絶対無になんども修行者をたたき込み続けるしかないと見た。そして、ただたたき込むと、それは錯乱や精神病に至ることも確実だった。
チベットの文献では、暗闇があらわれて、そこに飲み込まれれば発狂するので、暗闇が襲って来たら、瞑想を中止せよとある。
だが、おもしろいことに、カトリックでは、この期間を暗夜と呼び、そして錬金術では腐敗(ニグレド)と呼び、黒魔術などでも深淵超えと呼ばれている。
そこで私はただむやみに暗闇へ突入すれば、瞑想者は数年で廃人になると理解した。
私そのものが、そうしたプロセスを通ったからだ。完全な精神の停滞と倦怠と虚無感がやってくる。それはついには、莫大な疑問や、思考やノイローゼを発生する。
それを可能な限り、安全に運ぶために、私はサハスララ(脳天中枢)に留意しておけと言う。そうすれば、暗闇から戻ったときに、意識が覚醒したまま、中心をずれない。
停止点から世界をリラックスして眺めることが出来る。
もしもサハスララの留意のないままに暗闇に長期的に瞑想すれば、もどる世界を失って、あなたは確実に自殺する。それは100パーセント確実だ。
無の暗闇が我々にきざみ込む溝は取り返しのつかない虚無なのだ。
だから、それと引き分けるには、絶対の純粋存在性しかなくなる。
無と有のどちらかが勝つわけではない。
それらは互いに不可分のまま人間の中に同居しているのである。

おそらく、悟りを開く、あるいは単に苦悩者が根本から楽になる、そういう道は
いまのところ、死人禅以外にはないであろう。近い将来、またサマーディタンクのような機械や、薬品によってではなく、もっと科学的な方法で我々の思考や自覚を停止させるものが出現するかもしれないが、いまのところ、私は死人禅を瞑想者や座禅者に適応してみて、禅寺や瞑想センターよりも、はるかに良好な、自然に力の抜けた人達を生み出している。これは決して善悪の問題ではない。
また禅が世界にどう貢献するかなどという子供じみた問題ではない。
あなたひとりが、いかに楽に生きて、
楽にただ死ぬことが出来るかだけが、私の課題だ。
私は、あなた、ただ一人のために法を語るのであって、
私の相手は、世界でも、政治的な社会でも、宇宙でもない。
私は、ただ一人、あなたに向かって法を説く。いままでも、そしてこれからも。
ブッダがシャーリープトラただ一人に向かって語ったように。

1993  11/27  EO


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