見出し画像

観光、食べ歩きじゃない谷中のレトロな街歩き

谷中は「谷根千」と言われる下町の街歩きで人気のエリアですが、ネットやガイド本の詳しい情報は主に谷中銀座や食べ歩き中心です。
谷中の魅力はそれだけではありません。谷中は「寺町」と呼ばれるように、60以上の仏教の寺院が集中している古い下町です。上野戦争で罹災したものの、震災や空襲では被害が少なく、江戸以来の古い町屋や狭い路地の町並みが今でも残っています。そのような歴史に裏付けられた魅力を持った街、谷中を歩きます。

なお谷中の魅力は多く、この街歩き記事では史跡、遺構、建築などに絞って歩きます。谷中霊園、谷中の古木は別編としてまとめたいと思っています。


マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出る)はこちらのリンクから。

JR日暮里駅から始めます。日暮里駅のバスロータリーに出ると、まず目にするのが太田道灌の像です。

太田道灌の騎馬像

「山吹の里伝説」にちなんだ鷹狩り装束の道灌の騎馬像です。この像は、平成元年に橋本活道氏(僧侶・彫刻家)が制作し、鈴木俊一氏(元東京都知事)が「回天一枝」と題したといいます。

太田道灌の騎馬像
太田道灌の騎馬像

傍に「山吹の里伝説」で山吹の花を道灌に捧げた少女の姿を現した像があります。
この像は平野千里氏(荒川区顧問・彫刻家)が制作し、平成30年に設置されました。鷹狩りの途中で道灌が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、黙って一枝の山吹を捧げました。 「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」

山吹の花を道灌に捧げた少女

太田道灌物見塚の碑、小林一茶の句碑 (本行寺)

本行寺は、日蓮宗の寺で「月見寺」とも呼ばれて江戸時代の文人や粋な人たちから親しまれて来ました。本行寺境内にはかつて眺めのよいこの地に「物見塚」(見張り台)を作りました。塚は鉄道敷設でなくなりましたが、この碑は残りました。

本行寺
太田道灌物見塚の碑

一茶もしばしば本行寺を訪れていました。道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、小林一茶もこの地で句を詠みました。「かげろうや どうかんどのの ものみづか」

小林一茶の句碑

上野戦争の弾痕 (経王寺)

上野戦争では、戦局はあっという間に新政府軍側が有利となり、夕方には彰義隊は瓦解し敗走し始めました。その敗残兵の一部が新政府軍の攻撃口とならなかった北東部に位置する経王寺に逃げ込んだといいます。新政府の攻撃を受け山門には弾痕が今も残っています。

経王寺 山門
上野戦争 山門の弾痕
上野戦争 山門の弾痕

夕焼けだんだん

日暮里駅から谷中銀座に下る階段。1950年代から続く昔ながらの商店街で規模はそれほどでもないですが、今や観光名所になっています。谷中といえばこの写真になった、定番の景色です。谷中銀座商店街に通じる「夕やけだんだん」と呼ばれる階段です。この「夕やけだんだん」という名称は、一般公募によって命名されたとのこと。
今日は、ここまでで谷中銀座には向かいません。

夕焼けだんだんから谷中銀座を望む

初音小路

夕やけだんだんから路地へそれると、初音小路があります。昼なお暗くちょっと躊躇しますが、一歩踏み入れると昭和の雰囲気に満ちています。簡易的に組まれただけの屋根付き小路で奥行きはそれほどなく、飲食店が十数店舗がひしめいています。戦後間もなくの飲食街らしく昭和の雰囲気がいまだに残っています。

初音小路
初音小路

朝倉彫塑館 (有料展示)

竣工年:1935年(昭和10年)。
彫刻家 朝倉文夫のアトリエと住居だった建物。朝倉が自ら設計し、細部にいたるまでさまざな工夫を凝らしてあります。入館して展示を見るのは有料の施設です。
(残念ながら、当日は閉館日でした。)

朝倉彫塑館

日本近代彫塑界の最高峰であり、文化勲章受章者である朝倉文夫が住宅兼アトリエとして使用していた建物です。敷地全体が「旧朝倉文夫氏庭園」として国名勝に指定されており、建物は国有形文化財に登録されています。「墓守」「大隈重信候像」「仔猫の群」「時の流れ」など、朝倉文夫の彫塑作品を展示しています。

https://tokyo-indepth.com/

香隣舎

築年など詳細は不明です。明治時代の商家(酒屋)の趣を残しており、保存状態も良く谷中らしい建物のひとつです。個人所有の建物ですが、ご厚意により地域のイベント等に貸し出しされているようです。

香隣舎

幸田露伴旧居跡

幸田露伴が「五重塔」を書いた頃住んでいた旧居跡です。この場所に幸田露伴は1891年(明治24年)から約2年間住んでいました。幸田露伴は日々この家から谷中の五重塔を眺めていました。そして、この天王寺五重塔をモデルにした「五重塔」を執筆したといいます。上野の寛永寺旧本坊表門近くには当時住んでいた谷中の門が移築されています。

幸田露伴旧居跡

観音寺の築地塀

観音寺の築地塀は幕末の頃に築かれたもので、延長38mの塀で、瓦と粘土を交互に積み重ねてあります。江戸有数の寺町だった面影を残しています。

観音寺の築地塀
観音寺の築地塀

岡倉天心史蹟記念堂・旧前期日本美術院跡

岡倉天心は日本美術の啓蒙に尽力、居宅でもあった当地に日本美術院を1898年(明治31年)に創設しました。記念堂は昭和41年に建立され、堂内には岡倉天心坐像が安置されています。

岡倉天心史蹟記念堂

全生庵 山岡鉄舟の墓

幕末、江戸幕府は松平忠敏のもと浪士組を募集し、山岡鉄舟は浪士組の取締役となりました。その後、戊辰戦争で勝海舟と協力、静岡で西郷隆盛と会見して勝・西郷会談への道を開き、江戸無血開城に奔走しました。この全生庵は1880年(明治13年)、山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建したものです。

全生庵 山岡鉄舟の墓

旧吉田酒店

竣工年:1910年(明治43年) 。
江戸時代に創業の酒屋。現在は下町風俗資料館の付設展示場になって無料で開放されています。あいにく当日は閉まっていました。谷中で江戸時代から代々酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物を現在地に移築したものです。明治43年に建てられた建物は、腕木より軒桁が張り出している出桁造で、また正面入口には板戸と格子戸の上げ下げで開閉する揚戸が設けられていて、明治時代の商家建築の特徴を示すものとのこと。

旧吉田酒店
旧吉田酒店

カヤバ珈琲

カヤバ珈琲は、推定1916年(大正5年)の建設以降、ミルクホール、かき氷・あんみつ店、などを経て1938年(昭和13年)に「カヤバ珈琲店」となり、 谷中のシンボルとして地域住民の方々をはじめ、近隣にある東京芸大関係者など、 幅広い層に長年親しまれたお店でした。しかし、2006(平成18年)に閉店してしまいました。しかし、この喫茶店の復活を願った方々の支援によって、2008年(平成20年)にNPO法人たいとう歴史都市研究会が借り受けて、新たな運営者によって現在のカヤバ珈琲が復活しました。

https://tokyo-indepth.com/
カヤバ珈琲

この一角には、大雄寺のクスノキ谷中岡埜栄泉愛玉子(台湾のスイーツらしい)など、谷中らしいレトロ建築の見どころが集まっていて人が集まる場所でもあります。谷中は震災や戦災に耐えた町屋など、ぶらぶら歩いていて出合う「新しい発見」の楽しみがあります。


この記事は、私の「東京レトロ街歩きガイド&マップ」サイトのエリア別「Ar-19谷中から根岸、千駄木を歩く」を基に街歩きをしています。記事の内容以外にもAll in Oneのガイド&マップになっています。こちらもぜひ参照ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?