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笑福亭枝鶴さんの寄席の交流会でアフリカ料理をつくりました。

笑福亭枝鶴という落語家さんがいる。この方と出会ったのは、僕が産まれてまだ間もない頃。僕は全く覚えていないのだけど、会っていたらしい。その話を親からよくされたものだ。

そのあと、物心ついてからは会うことはなかった。でも、お歳暮を毎年のように送ってくれた。いつも包紙に襲名前の芸名「こつる」という名前が貼ってあって、小さいながらにも”笑福亭”という名前はテレビで知っていたので、自分には有名人の知り合いがいるんだと思って少年時代を過ごした。数年ほど前に、6代目の枝鶴の名前を襲名されて、僕が大学生の頃になると枝鶴というの呼び名が当たり前になった。

なので、自分の人生において笑福亭という名前はいつもとなりにあった。

元々は、父の高校の先輩と後輩の関係だ。自分の父が1期生だった高校で落語研究会(通称=オチケン)を発起人として立ち上げて、1人部活動として活動をしていた。
そのときに新入生が集まる部活動紹介で、父が落語をする姿に感銘を受けて、落語研究会に入部、そのあとプロの落語家になるというのを決めたのだという。身内ながら、プロの噺家のスタートラインに父がかなりの影響を与えたということになる。

僕の父は、大学に入学して、枝鶴さんは高校を卒業すると同時に”5代目の”笑福亭枝鶴さんの元へ弟子入りした。いつしか、落語家になりたかったはずの父は大学生に、後輩は噺家になるという構図になった。

大学を卒業するときも、祖母の反対によって噺家になる道を諦め、大手企業で働くという道を選んだ父はさぞかし、落語を職業として選択した後輩の姿が羨ましくて仕方なかったはずだ。他の人たちが羨ましがるほど、自分のやりたいことを後押ししてくれる放任主義な父は、きっとその原体験があるからなのかもしれない。

前回のnoteで母親が亡くなった話は書いた。
母の死から1人身になった父のことを気遣ったのか、父が枝鶴さんの後援会長になった。"肩書は人は育てる"とはよく言ったもので、関西を拠点にする枝鶴さんを東京に呼んで寄席をやったり、大型のスーパーマーケットの仕事を紹介したり、後援会長と書かれた名刺を嬉しそうに僕の友人に配ったりしている姿があった。

そんなことがあったので、数年前に東京へ来た枝鶴さんに物心ついてからようやく会うことができた。自分が働いていた、ゲストハウスで寄席をやってもらったこともあった。

僕は観光の仕事をする傍らで、料理好きが転じて世界中の料理を提供しながら、世界の話をするという活動を細々と行っている。

先日、そんな枝鶴さんからFacebookで唐突にメッセージがきた。

ごきげんさんです。
お願いなんですが。
摂津市正雀で隔月奇数月に正雀寄席ちうのをやってます。
終演後交流会で料理お願いできませんやろか?
アフリカ料理が希望です。
20〜30人くらいの参加を考えてます。
人数絞り込むのは可能です。
予算は相談ちうことで。
日取りは
3月1日か、5月3日。
7月は未定です。
よろしくお願いします。

箇条書き感が半端なかったが・・・あの枝鶴さんから逆にオファーをもらえたことが、ものすごく嬉しかった。

当日まで、本人や世話人さんと細かく連絡を取り合って、迎えた当日。アフリカ各国の料理を色とりどりの形で提供した。

そのあとにはマイクを持って、アフリカの話をするという機会を与えてもらった。

プロの噺家さんが温めた場の後で話をするという、なんとも贅沢な場だった。うまく話しをできたのかはわからないし、時間も長くなってしまったが、気の流れがいいところで話をするのはやりやすかったし、最高だった。


父から後輩へ、そして後輩から先輩の息子へ。きっとこれは、恩は返すだけでいくのではなく下の代に渡していくものなのだというメッセージなのだと思った。

父から1つ下の後輩へ送っていたものが、僕という下の代にバトン渡しをしてくれたのだろう。

最後に大入り袋に入れて御志という謝礼をいただいた。このお金はなかなか使えない。

大学生のとき、1人の憧れの先輩から旅にいくときの選別をもらったことやご飯を御馳走してもらったことがある。
「いつかこの恩を倍返しで返します」と伝えると、その人から言われたのは「自分に返さなくてもいい。自分に余裕ができたときに後輩や、そのあとを追いかける人たちに渡していきなさい。」と言われ、そんなことを思い出した。
この気持ちはいつまでも忘れないようにしよう。

それにしても、落語とアフリカ料理という、謎過ぎる絶対に今まで誰も真似したことのないような設定だと自分でも思う。

また腕を磨いて、どこかのタイミングでやりたいな。


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