1人の女性がエンジニアになるまで 〜yuryuの場合〜
こんにちは、はじめて note に投稿します。普段ははてなブログでシアトルの暮らしを不定期更新しています。
先日、「1人の女性がエンジニアになるまで」というタイトルの記事が投稿されているのを読みました。「どうして」エンジニアリングの世界に入ったのかが細かく書かれていて、とても共感しました。まだ読んでいない方はぜひ下のリンクから。
現在アメリカのシアトル市で、グーグルの Developer Advocate をしています。Developer Advocate はよくカンファレンスで発表したり、オンラインに記事を投稿したりすることが多いですが、私はここ数ヶ月はずっと開発に専念しています。30代半ばで、肩書には「シニア」とついていますが管理職ではない、会社は5社目で現在在職6年目です。Twitter は @Yuryu で、日常のことをよくつぶやいています。
誕生〜幼稚園
私は大阪府貝塚市というところで生まれ育ちました。隣のだんじりで有名な岸和田市と、ふるさと納税で有名な泉佐野市に挟まれた、地味な自治体です。大阪市内まで電車で30分で行けるものの、ほとんどのことは地元で済みますし、近所の人の名前と顔はだいたいわかる、というような地方と田舎の間くらいのところです。下の写真は貝塚駅前です。雰囲気が想像してもらえると思います。
両親ともに公務員で、父は近隣の自治体で事務職、母は大阪府の公立中学校で英語教師を勤めていました。祖父が自営業で瓦の販売施工業を営んでおり、身の回りは結構自営業が多かったです。大企業に勤めている人はいなかったし、エンジニアのような人もいませんでした。特に女性は四大卒というだけで「あの子は賢い」と言われ、特にお受験や海外、東京へというような土地柄でもなく、みんな地元の公立学校に行くのが当然でした。
小学校
父方のいとこがファミコンを持っていて、父方の祖母の家に遊びに行くたびに遊ばせてもらっていたのがたぶんコンピューターに興味を持ったきっかけです。でも特に何かを自分で作るということを考えたこともなく、目の前のゲームが「コンピューター」や「プログラム」で動いているということを考えたこともなかったです。
大きな転機は、母が学校のテスト問題を作るためにワープロ専用機を買って来た時でした。これが私が画面にキーボードのついた「コンピューターっぽいもの」を認識したきっかけです。母親が使っていない合間に自分の小説を打ち込んだり、年賀状作成を手伝ったりするようになりました。そして、本屋に行ってワープロの話題に近そうな棚を探すと、パソコンマガジンの棚にたどり着いたんです。
当時はワープロとパソコンの違いがわかりませんでした。どうもプログラミングというものができて、自分でゲームを作ったりできるようだけど、自分の目の前にあるこのキーボードの付いた機械ではできない... ということで、親にパソコンをねだり始めました。Windows 95発売直前で、当時のパソコンと言えば NEC PC-9800 シリーズで、中級機種でも本体とディスプレイセットで20万円以上するので、とても小学生のお小遣いで手が出るものではありません。親に1年以上「欲しい」と言い続けた気がします。 両親も少し興味があったのか、ついに折れて、私が小学5年生のときについにパソコンを買ってもらえることになりました。
パソコンを買っただけではプログラムは書けません。当時は開発環境もほとんどが有料で、そもそも「C言語のプログラミングにもソフトウェアが必要」ということを知らなかったので、途方に暮れていました。そこで父が親類でパソコンに詳しい、私のいとこを呼んできてくれました。いとこは買ったばかりのパソコンを、起動すると MS-DOS のコンソールが起動するように設定変更し、C言語のコンパイラとテキストエディタをインストールしてくれて、プログラムを書く準備が整いました。
その後は特に教えてもらうということはなく、地元の図書館に行ってC言語の参考書の一番厚いものを借りてきて、ひたすら最初からプログラムを書き写すということをしました。小学6年生ごろなので、概念的なことはあまりよくわかりませんし、英語も知りません。貸し出し延長を繰り返したり、一度返した本をまた借りたりして何冊かの入門書を終わらせました。
中学校
母親が四大卒だったこともあり、自分の経験から子どもを良い大学に行かせることに熱心だったので、中学受験をして私立中学校に入りました。周りにプログラミングをしている人はいません。よくわからないけどすごいオタク扱いされていました。この頃からパソコンゲームにハマり、一方ではゲームをプレイして一方ではプログラムを書いていました。
数学的な知識が無いので、参考書のプログラムを写してそこから機能を加える、というパターンが多かったです。言語はその時に必要だったものを特に「役に立つ」とか「キャリアのために」とか考えずに、手当り次第やっていました。学校の英語しか知らなかったので、プログラム中の if とか for とかは記号だと思っていて、変数名などはローマ字でした。
これはオセロゲームのコードの一部です。「YOUの勝ち」「COMの勝ち」「引き分け」という文言が並んでいます。これでも動くんですね。英語の辞書を引いたり余分な時間を使わず、プログラミングに集中できたのは良かったと思います。
高校
中高一貫校だったので、そのまま高校に進みました。もっと本格的なゲームを作ってみたいと思って、DirectX の勉強を始めたりしましたが、全然理解できずに諦めました。そのときに買った参考書の中に同世代の登大遊さんの本があって、同じ高校生でもこんなに違うんだ... これがすごい人の世界なんだと思いました。
そこそこプログラムはできるけど、全部趣味で、こういうすごい人に比べたら全然なので、この道を進めるというのは考えてもみませんでした。それでもパソコンばかりしていたので成績は落ちて、夜ふかしもするので授業中うとうとして先生に叱られるようになりました。
コンピューター、プログラミングというのは2000年ごろの当時では私の身の回りの大人には未知の世界でした。業界の有名人といえば「ビルゲイツ」で、「そんなふうにはなれないから勉強しなさい」と言われました。また「インドや中国に将来仕事が取られるので、進路としておすすめしない」「流行っているけど将来どうなるかわからない」ということも言われた気がします。進路指導でも文系を選びました。一番大きな理由は数学の成績が悪かったからですが、女の子は理系に進まないイメージがある、ということもありました。
ひとつ転機になったのは、高校のときに全国高等学校IT・簿記選手権大会というものがあり、クラブの顧問の先生の勧めで出場してみたところ、そのまま全国優勝して大騒ぎになったことでした。これが「ひょっとして得意なのでは」と思ったきっかけです。でもその後プログラミングの大会である SuperCon に出たところ、予選はなんとか乗り越えたものの本戦では全く刃が立たず、やはり自分はプログラミングはできないんだと思いました。
その後浪人して、筑波大学の人間学類に進学しました。
大学
入学した人間学類は心理学、教育学、心身障害学などを学ぶところです。人工知能を作るためには人間の心理を勉強すれば役に立つのではないか、という気持ちと、教職を取れれば将来きちんと就職できるのではという打算の両方がありました。
筑波大学は前述した登大遊さんが当時在籍していた大学でもあり、一年上で情報の専門でした。こういう人が将来プログラマとして活躍するのであって、自分はだめなんだと思うようになりました。
ところが... 当時ノートパソコンを使って授業のノートを取ったりしていたところ、そういう学生は珍しく大変目立ち、担任の教授にも「そんなにパソコンが好きなら情報学類に移ってはどうか」と言われました。自分が行けるのか半信半疑でしたが、受験したところ合格して、2年次から情報の専門になりました。
これが私が「エンジニア」というキャリアパスに乗った瞬間だと思います。
情報学類にはプログラミングやコンピュータの実験講義があり、そちらは経験があったので苦にはなりませんでした。でも数学の授業がだめで、同級生にレポートやテスト対策を手伝ってもらってなんとか単位を取るという感じでした。成績は全体としてあまり良くなかったので、やはり自分にはこの分野は向いていないのではないだろうか、と思うことも多かったです。
大学院進学か就職かを選ぶときに、研究室の教授や先輩からは「修士課程に行くべき」と言われましたが、母からは「大学院なんて行ってどうするの」とやんわり反対されました。反対を押し切って大学院進学をほぼ決めるのですが、一方でたくさんお金を稼ぎたかったので、大学3年のときに「あわよくば」ということで当時高給で有名だった外資系金融機関や総合商社などを割とたくさん受けて、全部落ちてへこむ、ということがありました。サークルの同級生が採用されていたので、「それに比べてなんて自分はだめなんだ」と思いつめました。
大学院
大学院に進学したものの、あまり学業や研究には身が入らず、相変わらずサークルに出入りを続け、毎日のようにお酒を飲むという最悪な学生生活でした。教授からは「期待してるから!」ということで国際会議の発表をさせてもらったりして、海外旅行にハマり、バイトと奨学金で海外旅行をする生活でした。
バイトは大学の掲示板にはられていたプログラミングのバイトを最初は時給1000円、その後時給1,200円でしていました。その前の居酒屋バイトが800円なので、すごく時給が良いと感じていました。実際の業務システム開発をしたので学ぶことも多かった反面、時給1,200円なので「プログラマーになればすごくお金が稼げる」とは思わなかったです。
博士課程へは「博士は就職が難しい」と聞いていたことと、研究をほとんど真面目にしていなかったことで、進学しないことに決めて就活をはじめました。SIerというような会社、ゲーム会社、半導体メーカーなどを受けたけれど全部落ちて、学校推薦を使ってパナソニックから内定をもらいました。
修士1年の最後にフランスのレンヌにある国立応用科学院(INSA)に一ヶ月インターンシップをさせてもらえる機会がありました。でも... 就活のことも気になり、コミュニケーションの壁もあり、本人のやる気の問題もあり、なんとか一ヶ月過ごすだけに終わってしまいました。今考えるととてももったいないことをしたなと思っています。これはその研究所の写真です。
新卒入社
パナソニックに入社したのは2010年で、11年前になるので現在はどうなっているかわかりません。当時の事業部新卒入社組のうち、女性新入社員は私の他には一人でした。
当時は Agile Japan や RubyKaigi といったカンファレンスに参加していたので、そこで知る内容と部署の開発体制のギャップに悩み、様々な提案をするのですが中には失礼だったり過激なことも言ってしまい、上司に大声で「新入社員のくせに生意気」と怒鳴られるということもありました。
それでも部署の社員からはかなり色々な機会をいただき、工場の生産検査プログラムを一人で新製品に対応させる、というような珍しい仕事もできました。ただ最終的に当時の課長に「この会社に合わないね」と言われてしまい、転職活動することにしました。
転職、その後
RubyKaigi 経由の知り合いが勤めていたグリーに社員紹介してもらい、積極採用していたのですぐに決まりました。時期は本当に大事だなと思います。
その後グリー在籍中に出張でラスベガスの Amazon re:invent に参加させてもらい、それがクラウド技術に出会うきっかけになります。日本のイベントとは全く雰囲気の違う大規模イベントですっかり魅了されてしまいました。今クラウドに携わっている大きなきっかけです。この写真は夜のパーティーです。
その後グリーを1年程度で辞め、その次の会社も10ヶ月ぐらい、その次も1年ちょっと、という感じでなかなか定着できない時期がありました。
結構パワハラや嫌がらせを経験したと思います。順不同で、どの会社かということは伏せますが、上司が半年ほど口を利いてくれなくて無視するとか、同僚に「おはよう」と言うと「いちいちうるさいんだよ」と怒鳴られその後も無視されたりとか、部署の全員100人ぐらいに向かってこいつはLGBTですと宣言させられるとか、社内チャットのDMで陰口を叩かれるとか、LGBTであることを理由に出社停止になるとか、こいつと一緒の席に座りたくないと言われ席替えするとか、そういうのです。
幸いにしてどの時期も味方になってくれる人もいました。本当に親身になって社長まで声を上げてくれた人もいます。救われました。そういう人がいなければ私はここにはいないと思います。この場を借りてありがとうを言いたいです。
現職へ
グーグルは 2009 年の Google Developer Day という横浜のイベントで、すっかりファンになりました。当時は HTML5 の話とか、Android の話がメインだったと思います。でも自分に働ける会社だと思っていなかったし、一部の天才が行くものだと思っていました。あと「外資系」に対する漠然とした怖さみたいなものがありました。
ところが大学を卒業して何年か経つと、知り合いが何人か入社しているし、研究室の後輩も新卒で入社したということを知りました。これは自分も記念受験になるかもしれないけどチャンスがあると思い、知り合いの社員紹介でソフトウェアエンジニアを受けることにしました。面接には進めたものの残念ながら採用委員会で見送りとなりました。やっぱり自分には無理だ、みたいな悔しさがあって泣いたのを覚えています。
その後無理だと思って半分あきらめていたのですが、毎年1月ぐらいにグーグルのリクルーターから「また受けませんか」みたいなメールが来るので、毎回受けて面接で落とされるということを繰り返していました。また、後輩にも頼んで違う部署の社員紹介をしてもらったのですが、面接に進む前に募集が無くなってしまうということもありました。Developer Advocate も一度受けて落ちています。
4回ぐらい落ちた時点でもう縁がないと思っていたのですが、その後ソフトウェアエンジニアではない、Customer Solutions Engineerという部署をリクルーターに紹介されて受けて、通りました。たまたまその時は転職後1年程度でまた仕事を変えることに少し抵抗があったのと、第一希望であったソフトウェアエンジニアではないということで悩みましたが、入社することにしました。
Developer Advocate になりたい
Customer Solutions Engineer の仕事も楽しかったのですが、Google Developer Day、Amazon re:Invent などの大きなイベントで刺激をもらいキャリアを変えてきたので、そういうところで話す人になりたいという気持ちがずっとありました。仕事以外でも Rails Girls の co-founder の Linda Liukas さんが世界中を回ってプログラミング教育の話をして、私も通訳として同席させてもらうことがあって、「彼女のようになりたい」と思っていました。彼女は TED でも話しているので、動画(日本語字幕あり)のリンクを貼っておきます。
グーグルは社内異動がしやすいほうだと思いますが、新しい職種につくときには社外から受けるのと同じような面接手順を踏みます。DevRel の知り合いに直接話をして、マネージャーを紹介してもらい、異動したい旨を伝えました。日本国内のカンファレンスで発表したり、コミケや Kindle で Linux の本を出していることが評価につながって、採用枠ができたときに教えてくれて、模擬面接もしてもらい、無事に異動することができました。
Developer Advocate は一度社外から受けたときに面接で落ちているので、かなり心配でしたが、やりたかった仕事につけました。念願だったアメリカへの異動も、応援してくれるマネージャーのおかげで叶いました。子供の時以来の夢だった円周率の世界記録も取ることができました。
その後 Liukas さんのように世界中を回ることができて、彼女が住むフィンランドのヘルシンキに行ったときに「実際にやってみてどう?」というような会話をあこがれだった人とできてとてもうれしかったです。
終わりに
振り返ると幸運に恵まれて様々な機会があったものの、なかなか活かしきれないということが多かったと思います。それでも大学での理系へ転向や転職活動など重要なところでは諦めずに挑戦してよかったと思いました。
私の悪い癖なのですが「自分はできる、すごいところもある」という感覚と「自分は全然だめだ」という感覚が自分の中で同居して、都合の良いときに都合の良い方を引き出してしまいます。もっと地道に努力することと、自信を持って挑戦していくことの大切さを常に自分に言い聞かせてます。
周りに自分のロールモデルとなる人が少ない中、目標と思える人に出会えたことは本当に幸運だったと思います。そして、キャリアの早い段階で自分のジェンダーアイデンティティ・セクシャルオリエンテーションで苦労をしたので、これからの人はそんな苦労をせずに好きなことができるように、応援したいと思っています。
少しでも参考になれば幸いです。質問や感想があれば @Yuryu まで何でも聞いてください。