人生さいごに食べるなら

とても興味深い企画を見つけたので、参加してみる。

具体的な最期を想定したリアルなことと、よくある「人生での食事が最後になるとしたら」のファンタジー要素で最後に食べたい好きなものを考えてみたい。

リアルな終末期、そこにいる本人は「もう何も食べたくない」というのが本音だと思う。栄養補給のための点滴なども賛否両論あるけれど、老衰とかターミナル期との診断がつく状態までくると自然なまま苦痛なく最期を迎えることが幸せなんだと感じる。亡くなることは自然なこと、その段階まで寿命がある方は、自分の中に溜め込んだいろいろなものを、吐き出すように脱ぎ捨てるように、自分から取り除いて骨と皮だけになって静かに身軽に旅立って逝く。
何人かの利用者さんの看取りに関わり、そんな自然な掟の前では医療的な知識は、まだまだ未熟なんだと思ったりする。
それでも、大事な人が生死の狭間にいるとき、周りの人は黙って見ていられるわけがない。何とかして食べて欲しい、少しでも長らえて欲しいと願うのもまた当たり前のこと。たくさんの声かけをしてその人が食べられるもの、好きな物を考えて、手を尽くして何か口に入れてもらえるように工夫する。
もし、自分がそこまでの寿命を与えられたとしたら甘くなめらかなプリンを所望したい。美味しいと思えないから、エンシュアとかヨーグルトとか栄養補助的な飲み物は摂りたくない。早く楽になりたい、と心の中では思うかもしれないけれど、必死になって勧めてくれる家族や介護者の気持ちを考えながら、「食べたくない」でも「食べなくちゃ」って葛藤と闘うのだろう。そんなときほんのり甘くて口当たりのよいものが良い。「もういいや」「もう少し生きなきゃ」って思い巡らすその時、少しでもじゃあ頑張ってみようかって原動力になるのは、きっと優しく甘いプリンの記憶。
リアルでは最期、何も食べたくないって心境になるだろうけど、その時口に入れられるものを頑張って自分の命を惜しんでくれる人のために食べるようにしたい。
企画の趣旨から少し外れてしまうかもしれないけれど、さいご、「何を食べたい」より誰の言葉で「何が食べられるのか」っていう風に自分は考えてしまう。実際に何を食べる、飲むという具体的なものではなくて「食べなきゃだめだよ」って誰かが傍らで声をかけてくれる。食べて、飲んで、だけじゃなくて想い出話とか感謝とか、自分のための言葉をかけてもらえる環境にいられたら良いなと思う。

そして、もう一つ。本当に空想で妄想で、例えば明日地球が壊れるみたいな設定で、ありえないけれどそれを受け入れているとして、人生の最後に何が食べたいのか考えてみる。
それは、時々考えたりすることだけど、世の中に美味しい物は数限りなくあるけれど、これで最後ってことになると本当に食べて満足できるものを食べたい。自分が一番好きで安心して食べるもの。いつ食べても美味しいもの。縁がカリカリになった半熟の目玉焼きに味の素と醤油を少し振ったもの、塩味がほどよく効いた焼き鮭、炊きたての白いご飯、これだけで良い。味噌汁まで揃った和風の献立、って意味ではなくて、日常食べて心底美味しいと感じて、いつ食べても美味しいって感じるのは、上手に焼けた目玉焼きと鮭と炊きたての白いご飯。人生で最後、これしか食べられないなら、これだけを食べたい。

食を考えることは、生きることの基本を考えることに繋がるんだな~って改めて気づく。
この企画を考えて下さったくまさん、紹介して下さったコッシーさん、ありがとうございました。企画に参加してみるのは、素晴らしい方との出会いや新しい気づきを得ることができて良いことだな~って思っています。


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