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何を書いてもリスクはあるけど。

noteでも他のSNSとかブログとか、人は何を目的にしてるんだろう。自分は誰が読んでも読まなくても、書きたいこと書いてるだけ。誰にどんな感想を持たれても構わないって思っている。故意に傷つけるとか誹謗中傷とか、それは当然するつもりはないし、自分の身元が特定されないことには配慮しているけれど。内容はバイアスかかってるし、独断・偏見・自分勝手な主張のオンパレード。他者からの共感も賞賛も求めていないし、反感かっても批判されてもそれも構わないと思っている。
noteでも人の心に刺さる、誰かのためになる、情報提供したい、目的は様々だけど、他人に読んでもらうことを目指すための記事をよく見かける。人に何かを伝えたい、そんな想いが強いほど、自分も傷つくこと多いだろうって気がする。
ほとんど、人は他人の記事には興味はない、時々、すごく共感するとかこの人の記事読みたいとか親しく感じるnoterさんはいる。相互に良い関係でコメントの交流したり、スキつけ合ったり。そういう交流は自分も肯定するけれど、親密に付き合える人数って限られている。自分のタイムラインにたくさんの記事が流れ去っていくように、自分の記事も他の方のタイムラインでそんな扱いをされている。自分の記事を拾って読んでくれる人もいることはいる。でも、全部じゃない。自分の記事を選んでもらえるのは、本当に奇跡的なことだと思う。
仲良しの方、好きな方の記事を読み合う、そういうnoteの使い方は好ましい。ただ、不特定の誰かに、自分の記事だけ読んでもらいたい、いわゆる読者とかフォロワーを増やすって方向は凡人には向いていないと思う。

他人の記事読まなくても、多くの方に記事読んでもらえるのは、一握りの著名人か、すごく魅力的な記事を書ける人に限定される。魅力的な記事を書ければ読者がつくよ、って誰でも言えること。ただ、その具体的な実践は普通の人には難しい。noteでマネタイズしようって野望も大いに結構。だけど、収支バランスで黒字にできるのも、やっぱり限られた人じゃないかと思う。
noteとかライターで稼げる人、どのくらいいるのかわからないけれど、一部インフルエンサーっぽい人がいて、その他大勢はカモられてるに違いない。

人の心に刺さる言葉を書くのは厳しいことだと思う。誰も傷つけない無難な言葉では誰の心にも入らない。普通の人が書く普通の言葉なんて珍しくない。人の心に届けるには真実とか強い主張が必要なんだけど、それは逆にそう思わないたくさんの真実を否定することにもなるし、物事って必ず明暗、表裏、善悪の相反する面を持ってるから何かを書く、強く何かを書くと、違う考え方の人から反発される。
反発をはね返すでも、受け入れるでも良いけれど、自分が書いたことは全ての人に歓迎されない、時には誰かを傷つけるリスクを常に負う。人の言葉で過剰に傷つく体質の人は、伝えることには慎重になった方が良いと思う。

何を書いても、書かなくても、批判を受けることはある。反対意見を一旦受け止めて自分の中で消化して、さらに高度な思想に持って行ければ一番良いのだと思うけれど。

他人様のことは、どうでも良くてあくまでも自分の考えだけれど、自分は自分の思うことをただ書けば良い。自分が感じる魅力的な記事、読みたい記事は例外なくその方の想いが乗っている記事。上手とか下手じゃないし、記事の長短でもないし、ジャンルに拘るわけでもなくて、その方の個性があって真実がある記事。当たり障りのない誰かの日常に自分を重ねるのは楽しいけれど、どこでも手に入るような薀蓄とか無機的なノウハウにはあまり心を動かされない。
大きな野望を持たなくて、日常的なことを書いて縁のある人と交流する。noteとは普通の生活に少し彩りを加えるくらいの付き合い方で良いんじゃないかと思う今朝。

あくまでも、自分の考え。「noteで一発当ててやる!」とか「この知識を誰かに伝えたい」をしたい人は思うとおりにしていけばいい。自分はどうしたいって考えて決めることが人にとって一番大事。自分が傷つく覚悟がない人は発信する内容を吟味したほうが良いと思う。何かを書いて投稿するってそれだけ大きいリスクと責任を背負ってるんだって自覚は誰にでも必要。