見出し画像

蝶のように舞えない 8話


←7話



 東雲の運転する車は、丸みを帯びたフォルムの国産車で、後部の窓のところにぬいぐるみを並べており、可愛らしい。
 カーフレグランスは安っぽい飴菓子のような香りだ。ルームミラーにくくられた交通安全の守袋には、小さな陶器のネコがついている。

 今日日、女っぽいだのと言うと問題発言となるが、少なくとも東雲のイメージには合わない。

 もっとも、身体を鍛えていて坊主頭だから、ある種の似合い方をしているのかもしれないが――

「なんかいらんこと考えてるでしょう」

 車を運転している時の東雲は、勘が鋭いような気がする。神経を研ぎ澄ませているためだろうか。沙羅は答えた。

「ぬいぐるみが増えたか? あの犬が新顔だな」
「そんなもんよく見てますね。あんまり並べてると職務質問で怒られるんで、ときどき捨ててるんですけど、そのぶん増えてるんですよ。繁殖してるのかな」
「中年男の冗談だな」
「うわっ、傷つくなあ。どんなに見た目を若くしても、中身はよくいるおっさんってか」
「そこまでは言っていないだろう」

 しばらく無言で、砂利道を走る振動を楽しんだ。沙羅はドライブが好きだ。ハンドルを握る男の横顔も、まあ好きである。

 少し前に事故を起こしてから、沙羅は運転を禁じられている。車も処分した。バンパーが凹んだだけであったが、乗りもしない車を修理に出すのが面倒だったのだ。また乗るようになれば、屋敷に余っている車をもらい受ければよい。

「前の車にはもう乗らないのか? あのシャコタンの」
「若い頃の恥を突かないでくださいよ。新しいのを買おうとは思ってるんですが、なかなかねえ」
「この車を駆るのは恥ずかしくないのか」
「克己様のいろんな体液染み号よりはマシですよ。この前ダッシュボード開けたら、おえっ、思い出すと吐きそう」

 ふっと笑みが漏れた。

「今面白いところありました?」
「すまない。久しぶりに、安らいだ気分になったものだから」

 東雲はちらりと沙羅を見て、すぐに正面に向き直った。正しい。運転手は脇見をしてはならない。

 しかし、左腕を伸ばして太ももに触れてきた。

 払い落とす。

「こんな密室でセクハラを働くとは!」
「違う! 手を握ろうと思ったんですよ! 前見てるからズレたんです」
「手? なぜ手を?」
「なぜってこたないですけど」

 東雲の左手がハンドルに戻る。

「あのさあ」

 普段よりもラフな口調で兄弟子は言った。

「このままどっか行っちゃいません?」
「IKEAか?」
「なんで?」
「前から行きたいと思っていたから。だめならいいが」
「行きたいんならいいですけど、いや、そうじゃなくてさあ」
「うん」

 沙羅を気にしてくれている、ということはわかっている。

 考えたことがないわけではない。どこかへ行ってしまい、もう山へは帰らない。そういった明日のことを。

「でも、お師さまのことを置いてはいけないだろう」
「あなたがしんどいときに気付いてくれない師なんか、別にどうだっていいでしょう」
「……うん」

 肯定ではなく、驚きによって出た声だ。

「お前がそんなことを言うとは思わなかった。その、うまくやっているのだろう。それに、知られたくないと思っているのは私なのだし」
「そういうの全部、重荷って言うんじゃないんすか? あっちに気ぃ使ってこっちで我慢して。あなたが耐えなきゃならん義理ってあります? そんな目に遭わされて、まだ惚れてるんすか?」
「それは……」

 自分でもわからない。感情の澱はたっぷりと沈殿していて、薄黒く見えるだけだ。どんな粒子の集まりなのか、もう改めることはできなくなってしまった。

「独りになるよりはましだ」

 そんなことを言おうと思ったわけではない。近頃、沙羅の口からは勝手に言葉が滑り出る気がする。疲れているのだろう。

「ひとりが寂しいってタイプには見えませんけどね」
「寂しいわけではない。怖いだけだ。独りになると、幽霊が私に触れようとするから」
「――大丈夫ですか?」
「うん」

 まだ幽霊は沙羅の身体に触れてはいない。だから大丈夫だった。

「それより、IKEAには本当に連れて行ってくれるのか?」
「ナビついてないんで、場所がわかりません。調べてくれたらいいですよ。何買うんですか」
「これといって決めているわけではない。ただ、広くて楽しいと聞くから、行ってみたくて」
「あなたもそういうこと言うんすね。遊園地にも行きますか?」
「いいのか? 行ってみたい」

 東雲は息を飲んだようだった。

「マジで言ってます?」
「だめならいい。どのみち――万羽の面倒も見なければいけないし、夕方までには帰らないといけないから」
「いや、そんなもんは親父に連絡しとけばいいですよ。どこ行きます? 舞浜?」
「私は全然わからないから……」

 少し恥ずかしくなり、うつむく。沙羅は世間のことを何も知らない。

「でも、連れて行くと言ってくれてありがとう」
「絶対行くし。これで連れて行かなかったら、克己様にも親父にもぶん殴られますよ。なんか、そういうの、もっと言ってくださいよ」
「そういうのとは?」
「家具屋でも遊園地でも、どこでも連れて行きますよ。それっくらいしかできねえけど」

 それが同情なのか、親愛と呼ぶものなのか、兄弟子の胸中はわからない。

 ありがとうと言うと、男に媚びた声が出てしまう気がして、沙羅は黙って窓の外を眺める。



 ドラム式洗濯機の内部の溝には、よく下着や靴下が引っかかっている。
 その紺色の布は、引っ張り出してみると相当の面積があった。

 巨大なブラジャーである。

「まあ、ご覧になってくださいな、お嬢様。Gカップですって」

 隣の縦型洗濯機に汚れ物を入れていた色舞は、ブラジャーを見ると口をへの字にした。

「どうして私に見せたの」
「物珍しくて面白いかと思いましたの。どなたのお忘れ物かしら」
「和泉先生か皇ギさんでしょ。あとは、沙羅さんか。他にはそれほどお胸の大きな方はいらっしゃらないと思うわ。みなさんご自分では洗濯なさらないでしょうけど」
「さすが、よくご存じですわね」

 色舞の口が今度は数字の3になった。

「どうしてあなたはそう嫌味っぽいの。私の胸が小さいことをあてつけて」
「お嬢様が僻みっぽいのですわ。そのことを気になさっているのは、世界中でお嬢様ひとりだけですもの」
「……そんなことないわよ」

 洗濯機の蓋を閉めて、色舞は運転ボタンを押した。

 洗面所の中に、注水の音が低く響く。

 連れ立って来たわけではない。たまたま一緒になったのだった。色舞がいいと言ったから、蘭香のほうが高性能の洗濯機を使っている。

 この屋敷には、全部で四台の洗濯機が置かれている。この洗面所には二台、裏庭のほうにもう二台があり、身分の低い者は後者を使っていた。
 ドラム式は、いま蘭香が使おうとしている一台きりだ。どう考えても、すべてをドラム式に置き換えたほうがよいと思うが、祖父は予算を切ろうとしない。

 洗濯槽にほかの残留物がないことを確認して、持参してきたシーツを入れる。操作パネルで、三時間後に乾燥まで終わるように設定した。

 洗濯機の使用は自由だが、あまり長く占領していると、目安箱に名指しのクレームが投書される。それを読むのは蘭香の係となっているので、握りつぶすことは簡単だが、自分についての悪口を書かれるというのは嫌なものである。

 手に持ったままのブラジャーを、少し考えて、洗濯機の上に置いた。晒しものにするようでもあるが、見つけやすいほうがいいだろう。

 色舞は用事を終えたのだろうに立ち去るでもなく、蘭香の手元を見ている。

「どうかなさいました?」

 もしかすると、大きなサイズのブラジャーから此紀を連想して、感傷的になっているのだろうか。

 色舞は赤い耳飾りを揺らして、いいえと言った。

「あなたは可愛いわね」
「ええ? 確かにわたくしは可愛いですけれど」

 口説かれているというわけではないだろう。

 色舞は焦茶色の瞳で蘭香をじっと見た。

「あなたは胸だってちゃんと大きいし、二重まぶただし、ブルーベースだし……」

 確かに色舞は胸が小さく、一重まぶたで、イエローベースだが、蘭香に容色で劣るということはないはずだ。
 アイドルグループにいるような顔ではないが、横顔がはっとするほど美しいと思うことがある。身体はすらりとしていて、黒いタイツを履いた脚は蘭香でもつい目をやってしまう。

 色舞は物憂げに目を伏せた。

「私が、和泉先生や、皇ギさんのようだったなら……」
「そこを目指していらっしゃるのですか? 迷走ですわ」

 確かにそのふたりは美人で胸が大きく、しかも東西のパキッとしたオーラを持つ個性派である。
 しかし、あれは天賦の才だ。たとえば蘭香があれほど際立つ容姿を持っていたとして、うまく使いこなすことはできまい。きっと今より多く悪口を言われるだけだ。

 中身もよほど強烈か、逆に人形のように希薄でなければ、姿に引っ張られて、生きにくくなるだけだろう。

 それこそ、色舞の父や兄もそうではないか。彼らは自身の美しさを持て余しているように見える。

 ――まあ、そこなのかしら。

 父や兄と比べると見劣りするという、そのことが色舞を卑屈にしているのかもしれない。昔から、そのように感じることはあった。
 美貌の祖父を持つ蘭香であるから、そういった気持ちはわからないではない。

 しかし、あの父と兄に溺愛されているのだから、もう何も要らないではないかと、蘭香はそれこそ僻みっぽく思う。

 美しさを望む理由はそれぞれであろう。自信のため、男のため、自己満足のため。あるいは理由などなくとも。

 色舞はきっと、自信や自己肯定を強めたいのだろう。
 蘭香は男のため――師から歓心を買うために、丁寧に薄化粧をする。野暮ったい服も着る。似合わないと言われた眼鏡を外し、強い香りのフレグランスも使わない。

 師の好みを無視すれば、蘭香は今よりずっと美しくなるだろう。
 だが、そうなったところで、師に気に入られなければ意味がないのだ。蘭香の世界観においては。

 ――わたくしがお嬢様だったなら。
 ――ほかになんにも望みはしないわよ。

 だから蘭香は、色舞に対して意地の悪いことを言ってしまう。

 それが師に伝わっているのだろう、と思うこともある。師が蘭香に望むのは、見目の美しさなどよりも、色舞を大事にすることだろう。

 色舞を憎んでいるわけではない。うまく折り合いをつけられない、自分の心の不器用さに苛立つのだ。

「……才祇さまのお加減はいかがですか?」
「少し怠いとか言っていたけれど、いつものことでしょう。あなたもときどき顔を見せてやってね」

 才祇は蘭香の顔など別に見たくはないだろう。

 師の長子は、父親に輪をかけて、女に対して冷淡だ。男にもどうかわからない。

 ――あの喋り方ときたらどうだろう。

 誰からも、あれほどあからさまに拒絶されたことはない。蘭香は少し腹を立てている。

 才祇はすすんで世界を閉じている。若い頃より、部屋からほとんど出ることはなく、とうとう他者と会話をする気さえもなくしたらしい。あの難解な方言は鋼鉄の錠前であろう。
 そしてどうやら典雅や色舞は、そのことに気付いていないのだ。

 ――自分たちはフリーパスだからだわ。

 そのナチュラルな心の疎通が、蘭香の胸をちくちくと刺激する。そのパスが血縁によってのみ発行されるわけではないことも、また気に食わない。

「何よ……」

 小さな声でつぶやく。

 万羽が色舞を罵る理由もわかろうというものだ。
 万羽にはもう、父も兄もない。その上、友の遺品まで取られたのでは、嫉妬という嫉妬が弾けよう。

 色舞が悪いわけではないが、万羽もまた悪いわけではない。

 本当は悲しいだけなのだろう。彼女もまた、自分の心をうまく処理できないのだ。

「蘭香? どうかした?」
「いいえ。沙羅さんのことは理想像から外すのですね。太っていらっしゃいますものね」
「……そういうわけではないのよ。気苦労が多そうでしょう。ああなりたいとは言えないわ」
「そうかしら? 大変だとは思いますけれど、好きで苦労なさっているんでしょう。嫌なら逃げたらよろしいのに」
「逃げるのも簡単ではないのよ」

 妙にレスポンス早く、色舞はそう言った。

「沙羅さんなら追っ手がかかるでしょうし、そうなったら本当に逃亡だわ。すべて捨てて、一族の庇護からも抜けて、まず戸籍はどうするの? 服に血でもついているところを職務質問されて、留置所に入れられたら、青柳の口利きなしにどう出るというの。逃げたあとが大変なのよ」
「それはそうでしょうけれど。ボケ老人を抱えているわたくしよりは、どなたも身軽でうらやましいですわ」

 もはや、手あたり次第というような嫌味を言ってしまった。

 色舞は何も言わない。蘭香と話すことの無価値さを悟ったのだろう。

 黙って去ってもいいのだろうか。少し考えて、蘭香は丁度よい言葉を思いついた。

「ごめんあそばせ」

 なんと意地悪く響くのだろうと、自分でもしみじみと感じた。


→9話

→目次

サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。