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蝶のように舞えない 7話


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 どうやら、また蘭香がなにか菓子をこしらえているらしい。

 鍋を使う音と、うす甘い香り。それに火の気が台所から漂ってくる。

 よしと、西帝は背筋を伸ばす。
 食ってやろうではないか。あの人気のない菓子を。幸い、西帝はそれほどものの味にこだわらないほうだ。

 意気込んで台所に足を踏み入れると、「あら」と穏やかな声に迎えられた。
 蘭香ではない。

「色舞さんでしたか」

 あまり台所にいる印象はなかった。というよりも、みなせいぜい茶を淹れるくらいであり、調理をするのは蘭香くらいなのだ。

「こんにちは、西帝さん。ご用事ですか?」
「水がほしくて」
「少し待っていてくださいね、火を使っているので……。水差しですか? グラスで?」
「すみません。グラスで」

 食器棚からグラスを取り出す音と、蛇口から水を汲む音が聞こえる。
 ひんやりとしたそれを、どうぞと手渡された。

「ありがとうございます」

 ポケットの中から錠剤を取り出し、水で喉に流し込む。
 色舞は何も言わなかった。ただ、空になったグラスを自然に受け取ってくれた。流しを使う気配。

 ガスコンロには小鍋が乗っているようだった。戻ってきた色舞に尋ねてみる。

「お料理ですか?」
「うふふ、たいしたものではありませんけど。葛湯を炊いているんです。兄が、このところ手足が冷えると言うものですから」
「へえ」

 羨ましいなと思う。西帝が姉にそんなことを訴えても、布団を重ねろと言われるだけだろう。

「確かに最近、ちょっと涼しいですよね。いいなあ」

 露骨にいけるのが、末っ子の力というものである。
 色舞は優しい笑い声を漏らした。

「よろしければ少し召しあがりますか?」
「いいんですか。嬉しいな」

 火を止める音、それから金属の触れ合う軽い音。
 小皿などで分けてくれるのかと思ったが、どうやらスプーンか何かで口に運んでくれるらしい。

「熱いですから……」

 なんと、ふーっと息を吹きかけて冷ましてくれている。

「あーんして……」

 ちょっとしたエロシチュエーション音声作品ではないかと、不埒なことを考えながら口を開ける。

 熱く、とろりとしたものが舌の上に流れてきた。一瞬ぎょっとするようなテクスチャだったが、べたつかずにさらっと口の中で溶ける。ほの甘く、花のような香りがした。

 薄味の葛餅のようなものをイメージしていたが、予想外に美味だ。

「おいしいです。料理がお上手なんですね」
「あら、とんでもない。インスタントですよ。でもお口に合ったなら、今度お持ちしましょうか」

 色舞の声は上品で、天賦の美しい響きがある。歌など歌えば際立つだろう。

 この女の美点に気付かない男は馬鹿だ。西帝は東雲のことを思い浮かべている。

「色舞さんのお兄さんはお幸せですね」
「そうかしら? 西帝さんもご兄弟とは仲がよろしいでしょう。羨ましいわ」
「まあ、それは。はい」

 葛湯を炊いてはくれなくとも、兄や姉に文句を言えばバチが当たる。

 特に、兄だ。さまざまなことを犠牲にして、西帝を選んでくれた。いつか報いなければならない。

 ――叔父さん。

 頭が痛む。飲んだ薬が効くまで、もう少しかかるのだ。こめかみを強く押さえる。

「西帝さん、ご気分が?」
「すみませんが、椅子を貸していただいていいですか。ときどき頭が痛むだけで、大したことはないんですが」

 案内されて、小さな丸椅子に腰かける。それで少し楽になった。

 それにしてもと、色舞の所作のなめらかさを思う。西帝に触れず、適切な言葉で周囲の説明をし、椅子を軽く引いて音を立てた。障害者への接し方がうまい。西帝の姉よりもだ。

 色舞は流し台の下の戸を開けて、食器や袋などを出してみては、元に戻しているようだ。収納の整理をしているのか、あるいはそのふりか。間がもたないと思ったのだろう。

「俺のことは気になさらなくて大丈夫ですよ。お料理の途中だったんでしょう」
「あとで温め直せば平気ですから。この台所はみんな勝手に色々なものを置きますから、たまには誰かか片付けないといけないんです。氷砂糖なんて何に使うのかしら? あら、賞味期限の切れたようかん。――これは何かしら、大きな瓶。んっ」

 ごとりと重たげな音がした。

「血のように真っ赤だわ。――イチゴのようね。ジャム? こんなにたくさん」

 耳から入る情報で判断すると、おそらく酒だ。色舞が難儀するほど大きな瓶に、ジャムが詰まっているということはないだろう。使い切るのに百年かかる。

「梅酒のイチゴ版みたいなやつなんじゃないですか?」
「あ、きっとそうですね。日付が書いてあります。半年以上も前だわ。捨てたほうがいいのかしら」
「イチゴはわかりませんけど、梅酒だと何年ものみたいなのあるでしょう。アルコールなら大丈夫なんじゃないかな」

 というよりも、誰のものかわからない品を、勝手に捨てないほうがいいと思うのだが。

「こんなところに置いておいて、毒でも入れられたらどうするのかしら。危ないわ」

 なるほど。色舞なりに考えるところがあり、怪しげなものを排除しようとしているらしい。

 言われてみれば赤色の酒など、毒を盛る食品の代名詞という気がする。聖書にもそんなエピソードがありそうだと、西帝は適当なことを考えた。

「毒酒だとしても、色舞さんが飲まなければいいだけでしょう。置いといたらどうですか」
「でも、父や兄が口にしたらと思うと。私が神経質なのでしょうけど……」

 色舞の父が毒を盛られることはあるまい。

 それに、毒殺はイメージほど簡単ではないのだ。経口は特に失敗する。毒を手に入れたのなら、ついでに吹き矢も買った方がいい。

 だが、言わないほうがいいだろう。

「なんか、えらい方のものだったら、勝手に処分するとまずいんじゃないですか」
「そうかしら?」

 色舞がそうしたことを気にしないのは意外だ。

 しかしと気付く。そういえば現在は、色舞の父よりも権力を有する者など、そう多くはないのだ。西帝の父は果実酒など漬けまい。

「でも、そうね。蘭香に確認してみます。あの子のものかもしれないし」
「毒だって貴重品ですから、そんなでっかい瓶には入れないと思いますよ。効果が薄まるでしょう」
「貴重品?」
「強い毒なんて高いんでしょう、たぶん」

 適当に言ったのだが、色舞は呆れたように息をついた。

「和泉先生の部屋に置いてあるでしょう。長老なら、野草からでも、花屋で売っている花からでも作れます。私でも作れると思いますよ。たとえば煙草を――いえ」
「まあ確かに、たいがいのものは毒と言えば毒か。酒も飲みすぎたら死ぬし。水でも死ぬんだったかな」
「ええ。毒を甘く見てはいけませんよ。私などの匙を口に含むのもいけません」
「色舞さんは毒なんか盛らないでしょう」

 少し沈黙があった。

「……どうしてそんなことをおっしゃるの?」
「どうしても何も」

 色舞は善良な女だ。聖女ではないが、そのことを責められる者がどこにいようか。

 西帝の知る限り、色舞はそれほど多くのことを間違えはしない。心根の正しさは、行動の率直さに比例する。悪は多様に分岐するが、善はワンパターンなのだ。

 此紀は寿命を縮めながら医大に通い、東雲は師の選ぶことを尊重する。刹那の窮地を友が救わぬこともないらしい。

 自分は孝行者ではなかったなと、考えかけてやめる。今は色舞と話しているのだ。此れではないときに紀行すると、どんどん浮世離れしてゆく気がする。秋に生まれたあの女のように。

「西帝さん? 大丈夫ですか?」
「すみません、薬が強くて」
「まあ……」

 心配そうな表情が見えるようだ。女というものは不思議だと、目を悪くしてからの西帝は強く思う。何の縁があるわけでもない西帝に、なぜこれほど親身になるのだろうか。

「お姉さまかお兄さまをお呼びしましょうか?」
「いえ、少し休めば平気です。すみません。俺のことは気にしないでください」
「できないわ、そんなこと」

 ゆっくりとした声。手を握られて、びくっと震えてしまった。これではまるで少年だ。

「気にしないということはできないの。簡単に言ってほしくありません」

 年長の女らしい、叱るような言い方だった。
 西帝は女のこうしたところに弱い。何も言えなくなってしまう。

「私はしばらくここにいますから、ゆっくり休んでくださいね」

 色舞の頭のあたりから、小さな音が聞こえる。女のアクセサリーが鳴らす音。噂の耳飾りだろう。

 ――なによ、あんたもあたしに何かする気なの。

 あの甲高い声。彼女も末子だ。色舞のような声では話さない。

 ――なによ、あんたたちみんな来ないでよ。

 ――あたしの――さんに――触らないでよ!

 彼女の叫び声を、狼の遠吠えのようだと思ったことがある。どれだけヒステリックになっても、声はよく通る。腹筋を鍛えているのだろう。

 幼い頃、親切にしてもらったこともあるような気がするが、彼女はいまや色舞と敵対するものだ。西帝の父とも。

 ざあっという音が聞こえた。

 頭痛の呼ぶ耳鳴りかとも思ったが、色舞がつぶやく。「雨だわ」

 雨は誰の命を奪うのだったか、考えようとして、強い薬にかき消された。



 雨音に混じって、女の歌声が聞こえる。

 童謡か、子守歌のようだった。眠れ、安らかに、というようなことを、古い英語で歌っている。

 あるいは、葬送曲か。

 そこで、歌っているのが万羽だということに気がついた。甘く、柔らかく、潤いのある声だ。この歌声にならば死者も慰められよう。

 父もそう思ったらしい。障子をちらりと見た。その向こうは中庭だ。

「声は綺麗だな」
「顔も綺麗ですがね。醜いのは心だけです」
「誰かを愛したから、失ったときに傷ついただけだ。嘲るものじゃないよ」
「色舞が何を言われたかを聞いたでしょう。心の美しい者に、あんなことを言えるわけはありません」

 穏やかに目を細めて、父はティーカップに口をつけた。

「いい香りだ。蘭香が淹れるよりもおいしい」
「茶葉の封を切ったばかりだからでしょう。台所に置いてある茶筒など、とても信用できませんから」
「では蘭香は、その信用できない茶を私に出しているのか?」
「あの娘をいつまでも使っていることが理解できません。長老の類縁と言ったところで、もう意味はないでしょうに」
「つまり後ろ盾がないということだ。哀れな娘が師と慕ってくれるのなら、保障くらいは与えてやらなければ、若い者たちからの心証が悪いだろう。おかわりを」

 ティーポットを持ち上げて、まだ熱い紅茶を父のカップに注ぐ。
 細かい意匠の凝らされた、高価そうなティーセットだ。おそらく蘭香が買い揃えたもので、茶渋ひとつなく手入れされている。
 むろん、洗剤でよく洗ってから茶を沸かした。砂糖も個包装のスティックシュガーだ。ミルクも新しいものを開けた。
 それを神経質と笑う者は、長生きをすまい。権力に近ければ近いほどに。

 歌声はまだ聞こえている。

「聞き覚えのある歌だ。朝露のときにも歌ってくれた」
「どなたです?」
「忘れてしまったか」

 父はカップをソーサーに置いた。

「――ああ」

 思い出した。
 自分たちには、もう一人、妹がいたのだ。身体が弱く、赤ん坊のうちに亡くなってしまったが。
 今でも父は、命日には線香をあげているらしい。

「すみません」
「お前たちが忘れるのは仕方ない。私が覚えていればいいことだ。万羽もそう悪い女じゃなかったということは、少し考えてやってくれ。もう彼女を気遣ってやる者もいないんだから」

 父は女を嫌うわりに、妙に甘いところがある。それが処世術でもあるのだろうが、権力を失った女に優しくしたところで、なにも得はないはずだ。

「色舞のいるところでは、万羽様を庇わないでくださいよ」
「それは、そうだな。気をつけるよ」

 愁いを帯びた格好いい表情を作って、父は神妙にそう言った。
 どこまでわかっているのやら、と思ってしまうのは、顔が端正すぎるためだ。芝居がかって見えるのである。

 つまり、自分も周りからそう思われているということだ。自分は父によく似ている。

「誰にでん良い顔さしたらおいねえわ。女が最後に考げえるのは、てめえが選ばれったかどうかだけだじ。どのみち誰んことん選ばねえんなら、可哀想な女の数さ増やしちょるだけだわ。あじょんもかじょんもおいねくして、あんべ悪りいことんなるぞ」
「あんじょんもかじょんも、以降がわからない」
「あれもこれも駄目にして、うまく行かなくなりますよと」
「ああ、あんべというのは案配か」

 歌はまだ聞こえている。

 父は怪訝そうな顔をした。

「まさか、外で歌っているのか? こんな雨なのに」
「このところ様子がおかしいですからね。そうかもしれません」

 揶揄するつもりで言ったのだが、父はいくらか真に受けたらしい。

「ちょっと見てきてやってくれないか」
「嫌ですよ。向こうだって、私の顔を見たくないでしょう」
「お前の顔なら誰だって見たいさ。仕方ない。だいたい同じ顔の私が見てこよう」

 そのとき、歌声が止まった。
 父と顔を見合わせる。まさか、こちらの話し声が聞こえたわけでもあるまいが。

「これでひたひたと足音が近付いてきたら、ちょっとしたホラーですね」
「そういうときの女は、刃物を握ってると相場が決まってるな。気をつけたほうがいい」

 あまり洒落にはならない。祖父は女の刃物で死んでいるのだ。

 しかし、足音が近付いてくることはなかった。

「刃物というのは言い過ぎにしても、首に鈴くらいつけておかないと、危なっかしいでしょう、あの女」
「鈴がチリンと鳴ったところで、猫はもう肉を切り裂いたあとだろう。首に鈴をくくっても、いたずらに猫のストレスを溜めるだけだ。ただ関わらなければいい」
「父様には危機感がありませんね、どうも」
「悪人が簡単に更生することはできないように、善人も急に悪くなったりはしないさ」
「そんな楽観的な」
「楽観ではなく諦めだ。良くも悪くも、そう変われはしないという話だよ。呪いはじっくりと根を張り、成されたらもう解くことはできない。私たちは長い年月を生きているから、余計にそうだ」
「転落するのは一瞬だし、心なんかは化学的に変えられるでしょう。豆腐に頭をぶつけたとき、善も悪もありませんよ。豆腐の角の当たり方で決まるだけです」
「どういうことだ?」
「脳卒中の後遺症で性格が変わったりするでしょう。あれは血の止まった部分や規模で決まるわけであって、患者のそれまでの倫理観なんか参照しませんよ」

 父はふうむと唸り、「お前は賢いねえ」と年寄りのように言った。

「そういえば、此紀がそんなものの言い方をしたな。お前は私にそっくりだけど、性格はあっちに似たらしい」
「性格でもないでしょう。知識です」
「それも性格のうちさ。そうか、豆腐の角に頭をぶつけると、性格は変わってしまうのか。儚いことだな」
「長老なんか、まさしくそうでしょう」
「刹那か? 刹那は違うさ。あれは――」

 どこか、さほど遠くないところに雷が落ちた。

「おや。怖いな」

 父はそう言って、茶をすすった。


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