見出し画像

意識ってなんなん。

私が「意識」というものに興味が芽生えたのは確か小学4年生くらいだったと思う。
ずっと考えてた。
なんだろなー、この感覚。
いつも気付けば居る、というか戻る、というか。
考えてる私。感じてる私。ぼーっとしている私。いろんな私がいるけれど、いつも共にしているこの感覚はなんなんだろーて。
て、いつの間にか忙しくなり今に至る(笑)

面白い事に精子と卵子が結合した瞬間からこの意識もしっかり宿りはっきり「在る」という。
今こうしてビールを飲んでる私が、今を感じているこの「感覚」が、細胞分裂を始める瞬間からもうあるというのだからすごい。
幼児性健忘で3歳以前の記憶は無くなってしまうから分からない人が大半なのだけれど、最近ではこの時の記憶を持ったまま産まれる子も多く、みんな胎児の時から「意識」というものをしっかり感じている。

「自分」というモノを思い浮かべてみる。
日本人、女性、音楽好き、美味しいもの好き。割と社交的、争い事苦手、若い時イケイケ(笑)、痛い思い出多々あり。今はお母さんで、気の合う仲間にも恵まれている。掘ればいくらでも出てくるのでこの辺で。
だが、これは私の「概念」であり、この私の意識そのものではない。
産まれてからの「私」が経験した様々な出来事を、習得した日本語で、なんとなく説明しているだけであって、この「意識」と「ストーリー」には全くと言っていいほど関係性がないのだ。
「私」と思っているこの「私」も、私から見た「あなた」として見えているそこの「あなた」も、例外なくこの「意識」という視点でこの世界を眺めている。
家族も、隣人も、会社の上司も苦手な先生も、大好きなあの人も、全ての人がもれなく「私」であり、そして「あなた」でもある。それぞれの意識にそれぞれの「ストーリー」があり、当たり前の事なのだけど、そういう視点を入れて観ると、実に世界は面白くて奇抜だなとほろ酔いで思う。この奇妙な星「地球」を、みんな同時に、この「意識」という同じ「目」で眺めているのだ。

二元と非二元


この世は二元の、東洋でいう「陰と陽」からできている、というのは日々の生活の中で実感できる。朝と夜、男と女、子供と大人、明と暗、善と悪、あなたと私。
全てのものがそれで説明ができる。が。
それが進んでいくと、どんどんその「仕切り」のようなものが無くなる瞬間がある。それも、例外なく、と言って良いように思う。
なぜそうなるか、ゆるこ的視点。
2つのものが存在するということは、1つのものがないと成立しないからだ。
このふたつのモノを観る視点、フェーズ、もっと言うと次元みたいなものを移動する事によってそれは現れる。
この見方は少しスピっぽく聞こえてしまうかもしれないが、この「スピリチュアル」という言葉も、もともとひとつであった状態からそれだけ取り出されて分離させられているというが今の現実かと思う。話逸れた。
という事はだ、スピリチュアルという概念が様々にある中で誤解されるのを恐れずにいうと、やはり私たちは例外なく、元々、大きな「一つ」の存在であるということになる。
「分離」があるという事は、一緒に「統合」もあるという事だからだ。
キリスト、ブッタ、様々な存在たちが行き着いたところが、その「創造主」という次元だ。
今の世では、なかなかそこに辿り着かないよう「目眩し」をさせられているので実感が薄いが、そろそろ「それ」を受け入れる事ができるような精神性が私たちに備わってきているように思えて仕方がない(根拠のない自信)。
現にその事実を覚えたまま生まれてきてる人もいるし、後に思い出したり受け取ったりしている人たちが大勢いるという事が、何かしらの進化の途中だと確信させ、ゆるこは勝手に一人で興奮しているのであるです。

脳科学的に。


私たちの日々の行動は、実際にこの私が
「〇〇しよう!」と思ってから行動に起こしていると思っている。
実際にそうであるから仕方がないのだが、でもでもそれは本当なのか?
そう疑問に思った学者さんたちが面白実験をして興味深い結果を出してくれている。
人の脳波は、実際に「〇〇しよう」と思う0.5秒前にすでに電位変化しているというのだよ。脳が先に反応して、その後「〇〇しよう」と思って行動していると言う。そしてこの実験は古く、最近ではなんと、8秒前に脳が先に反応しているという結果が出たのだ。思考より先に、だ。
そんなわけないでしょって思うのも無理ない。自分が思って行動しているのに、その前から脳だけすでに反応するってどういう事やねーん。それはどこからくるものなんだーいて。
私自身が「やっている」と思っている事が、実際は何かから「受け取って」、それから意識が「やろう」と思わされているのか?
色々な分野から様々な見解があると思うが、私なりに思いふけってみた(8秒前に)

潜在意識やら集合的意識やら。

私たちは普段、いろいろなシーンでその時に相応しい「決定」をしているつもりだが、実は能動的ではなく、受動的に動くものだとしたら。でも、それはそれでなんとなく否定もできない。なぜなら、、
なぜならそれは、言語化できないけどそう思うからだ(笑笑笑)。
私たちの「意識」が何をしたいのかは、今の私、すなわち「顕在意識」には分からないかもしれないけど、この「顕在」と共にある「潜在意識」の方は、分からないの対、「分かっている」のかもしれない。
個々の意識は分離をしていて知らない事も、集合的意識、「源」に戻れば、バラバラになっていたパズルがピタっとはまるように、全体的な趣旨が見えるのかもしれない。個人的には知らないが、集合的には知っている。
なぜ顕在的に分からなくて、個人的には知らないないようにしてあるのか。
これを書くには、すごく時間がかかりそうなので次回にするといい、と受け取りました(笑)
まぁ、潜在意識やら集合的意識やらから何かを受け取っているのであれば、それもまた「私」という事になるので、やはり「私」が「私」を動かしているという事ですが(笑)

兎にも角にも、この「宇宙」という、とてつもなく魅惑的な「ビッグデータ」を、ゆるゆる〜っとした「意識」で漂っていたいと思うゆるこなのですた。
抗わずに、ね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?