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「無意識」てなんなーん。

この「無意識」については、いろいろな見方、姿勢があると思う。
意識が「存在している何か」であれば、無意識は「存在していない何か」になり、『存在していない』のに『何か』であるという、奇妙でわがままな言い回しになる。
でもそこがミソで、意識が『在る』という事が同時に、意識が『無い』状態を産み、この、意識が無いという「領域」が《在る》という事、それが「無意識」であると主張している。
宇宙の向こう側には何があるのか、という問いに対して、宇宙が「在る」から、反対は何も「無い」のだけど、ここでいう『意識』の次元は、“有る無い”の0対1(ゼロイチ)ではなく、表裏の関係。2つで一つ(ニコイチ)。
ま、“有る無い”もニコイチなんだけどね。
そんでもって死んでも『意識』は無くならないんだけどね。
ここで使う{無意識の意味}はこんな感じ。て、この語彙力で伝わるのかゆるこよ(笑)
ここは「顕在」と「潜在」という言葉が使いやすいねハイ。

夢ってなんなんなん。


寝る前に、布団の中でぼーっと横になっていると、一瞬、全く繋がりの無い映像を観てハッとする事はないだろうか。私はよくあるのだけど、多分これは「夢」であって、眠りに落ちる瞬間だろう。「夢」と「意識」が入れ替わるのが分かる時があるんだけど、私的にこの感覚がたまらなく好きだ。白昼夢というのかな。
その夢の方の自分も「私」ではあるんだけど、なんというか、別の部屋にいる「私」のような、新鮮でしかもとても生々しく切り替わる。「私」なんだけど、フェーズが違うというか、「夢次元」とか言うのか、「私」であって、いつもの「私」ではない、でも「私」である。
うん、今(顕在)の「私」には分かりまへん(笑)

この「夢」と「無意識」とが、とても深い関わりがあると言っているのは“無意識の創設者”フロイトですな。夢の一部は、その人の無意識が色濃く出ていて、普段、意識の中で抑圧された願望の充足が、夢(無意識)で形を変えて果たされ、意識のバランスを取っていると言う。

ユングで語るならもっと奥の方へ進む。端折って言うと、夢は無意識からの、特に集合的意識からのメッセージであり、それと向き合う事によって「自己実現」へ向かうという肯定的な態度だ(かなりハショりますた)


んで。
その「夢」というモノの立場になってみたんだけど。
夢側から見たこっち(意識)の世界。当の「夢」本人からしてみたら、自分が「夢」という認識はないわけで。そちらの言う「現実」って何すかー?って感じなわけですよ。私達がこちらを[現実]、あちらを[夢]というストーリーを言っているだけで、この夢と現実の違いこそ実の所はっきり説明できないのだ。
むしろ、大きく拡張した《現実》としてひとくくりにし、同時進行世界として、夢でも現実でもない視点で2つを1つに認識すると面白い。

心理学的にー。

私達は普段、意識的な(と思っている)取り組みをしている中で、楽しい気持ちになったり嬉しくなったり、怒ったり笑ったりして日々を過ごしている。
そしてその“喜怒哀楽”には、その人の個性があって、好き嫌い、向き不向き、見たい物見たくない物など、その人物の“ストーリー”がある。
顕在意識の中に「概念」や「解釈」があるように、潜在意識の中にも肯定的、否定的な「思い込み」があり、それは本人が気付かないところに住んでいて、人生の様々なシーンで暗躍している。
今までの、ただ起こった事が“現実”ではなく、その人の心がとらえた“現実”、〔心的現実〕がその人の世界を作っている。
その中で、表には堂々と出てこないものの、しっかり主張してくるのがこの無意識様で、よく無意識が意識のために働いてくれていると言うが、逆も然り、意識が無意識のために動かされてると言っても間違えではないだろう。

無意識(潜在意識)へのアクセスが、自己受容、自己解放の鍵だと言われるのが、人生は言わば、この無意識、潜在意識、集合的意識への旅であり、そして「死なない」私達にとって『魂の旅』の途中だとも言えるだろう(急に魂きたっ)。

潜在意識の可能性


無意識は「海」のようなイメージ。意識は「陸」だ。
海の浅いところは波がありウネリもあり、深く潜れば潜るほど、奥には静寂が広がっている。
そして、海水という「水」に覆われ、その水には、この宇宙全ての記憶のようなもので満たされているような【神秘性】を感じる。
この海のような場所に、とてつもなく膨大な情報が、その入り口が、あるような気がしてならないのだ。ワクワクワクワク

私がこれからやりたいこと。

この海のような、私達の“潜在意識”、さらには“集合的意識”に「接続」したいのだっ。
ちょいと心理学を学んだ私は、心理学だけでこの奇妙な生き物を語るのは無理、と言うか勿体無いという結論に至った。だって、素材が面白すぎるでしょ。
これまでたくさんの分野で“人”が研究されてきたが、もう新しい「学び方」をしないと説明出来ない局面が訪れている。
それをスピリチュアルと言う人もいるし、神学や、量子力学と言ったり、ノンデュアリティー、はたまた地球外生命体と言ったり。
様々な手法、考え方がある中で、それをその「分野」の人たちだけで共有するものにせず、もっと言うと、全ての人がこの「人」というものを学ぶ機会があっていいと私は思う。義務教育とかでもね。まあ、あえて学ばせてないという見方も出来ますが(笑)
どなたかが学ばせたいと思っている教育だけだと、かなーり偏っているよね。
後、わざと最初に「学ばない」という選択をしているという見方も出来るな、魂が。

私はそれを、『心理・真理・神理』という三つの「シンリ」からアプローチしたいと思っている。
“自己を開示して己を知り、「人」として自分がやりたい事を探求、最後は自己解放という、人の「枠」を超えたスピリットの視点に立つ“
自己開示お手伝い人、自己探求デザイナー、自己解放コンサルタント。これやってます。
そして本来の「人間」という生き物に戻るために、「人間」を「外(大宇宙)と内(小宇宙)」から眺める。
この「地球」という星の活動を、持続可能なものにしたいっすよねー。

そんなこんなで長くなってしまったが、今私はこの『無意識』という「海」へ出航したのでありました(いってらー)。
「意識」そのものは、『概念』を持たせてしまうと、もう「意識そのもの」ではなくなるので、まさに今“これ”が意識だから、もう何も説明が要らないというか、「今、この状態」それでいい。
『無意識』という、潜在意識に、集合的意識に『何か』がある。
そんなロマンを抱いて、ゆるこ船は今日も大海原を進むのであったー。

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