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非みんな

「みんな」という言葉はもう死んでいる。「みんな」という言葉はすでに意味をなしていない。まことに残念ではあるが。。。

戦場では、死にかけている兵士に「傷は浅いぞ」というそうだ。しかし、「みんなはまだあるよ~」と言うことはぼくにはできない。

今日、「インターネットポルノ中毒」についての動画を見た。わかりやすい例として取り上げてみよう。

インターネットポルノの危険性は、わかる人にはだいぶ前からわかっていたことだった。他の依存症とかわらない。じっさいのところは、ポルノかどうかすらあまり関係ないとぼくは思う。ネットの画面を長時間見続けるのは、ポルノであろうとなかろうと危険である。

しかし、そういう危険を察知できる人たち、つまりぼくらの世代より上の「みんな」など実はどうでもいい。そういう「みんな」はさっさとネットを遮断して本を読んだりするわけだけど、ここで高須氏が問題にしている「みんな」はそういう「みんな」ではない。

ほんとうに危ない「みんな」は、こどものころから当たり前のようにポルノの洪水に囲まれてきた「みんな」であり、そういう「みんな」にはそもそもの危機感がないし、気づいたら依存症になっている。そういう「みんな」は『細雪』を読んでおもいしろがったりはしない。

人間の数は、全部合わせたら1億2000万人であるとか3億2000万人であるとか言えてしまうので、それが「みんな」だとつい思いがちだが、1億2000万人の精神風景を俯瞰できる視点などすでにどこにもない。

この状態を通貨にたとえてみよう。今のところの日本ではまだ「円」という通貨が流通している。だから国全体がまとまっているかのように錯覚しがちだが、メンタルな領域では円を使っている人もいれば、ドルを使っている人も、ユーロを使っている人も、人民元やポンドを使っている人たちもいて、おたがいが交じり合わないようになっている。

そして、それぞれのグループが「"みんな"は人民元を使っている」とか「"みんな"はドルを使っている」とか「"みんな"はポンドを使っている」とおもいこんでいる状態なわけだ。しかし人民元を使っている人とドルを使っている人が出会う場所がないので、だれも自分の通貨圏がローカルだということに気づいていない。ちなみに、ぼくはジンバブエドルを使おうとして紙くず扱いされている人である。「だれもジンバブエドルを使っていない」ということだけは知っている。

今、任意のだれかが「みんな」だと思い込んでいるものは『マトリックス』の内部でキアヌ・リーヴスが見ている「現実」と同じくらいあてにならないものだ。これは海の向こうのアメリカという国を見ていればよくわかるが、他人事ではない。ネットがあるかぎり、この国でも同じスピードで進行している。

しかし、ラジオ体操をやったり紅白歌合戦を見たりしている人はそこにまだ「みんな」があると思っている。そのうちあからさまになるだろう。

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