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異性との認識のくいちがいは、共感だけでは埋まらない。

さいきんネットを読んでいて、興味深いページに遭遇した。

それは「男性心理がわからなくて悩んでいるあなたに解説します」みたいなもので、なぜおもしろいと思ったかというと、ぼくがつねづね

男性心理ほどわかりやすいものはない

と考えていたからだ。「女性心理がわからなくて悩んでいるあなたへ」だったら共感していただろう。ぼくにもわからないから。

とはいえ、木嶋佳苗死刑囚の手にかかった男性たちは、みなコロッとだまされたらしいが、座間9人殺害の白石死刑囚にだまされた女性もたくさんいたわけだから、わかりにくいのはどっちもどっちである。

その点は、男女差というより経験値の差が大きそうだ。作家の永井荷風は相当の遊び人だったらしいが、その日記を読むと「女というのはじつに単純でかわいいものだ」としみじみ語っている。これが経験値である。

永井荷風の『濹東綺譚』と川端康成の『雪国』は、よく似た小説で、どちらも「うぶな娘と中年の作家がズブズブの関係になっていく」という話だ。

『墨東奇譚』では、小説家大江と娼婦お雪との出会いと別れが描かれ、『雪国』では、批評家島村と芸者駒子の出会いと別れが描かれる。

どちらも男性は中年で、お金持ちで、インテリ風であり、女性は、十代で色街に身を売られた世間知らずの田舎娘だ。

娘は初めての恋をしているので猪突猛進でつきすすんでいく。彼女たちの目には、大江や島村がまぶしくて広い世界へ自分を連れていってくれる白馬の王子のように見えている。この色街から自分を救い出してくれる「蜘蛛の糸」なのではないかというはかない希望を抱いている。

一方、大江や島村の側は、ゆきずりの関係におもわず深入りしてしまったことを悔いており、この娘との関係がどこにも行きつかないことをあらかじめわかっているのである。

だから、今度こそ別れを切り出そうと思って出かけるのだが、そのたびにまっすぐな熱情にほだされてさらにハマってどうにも抜けられなくなっている。

たしか『雪国』の中に

島村は駒子のすべてを理解していたが、駒子は島村のことを何一つ理解していなかった。

というようなくだりがあったはずだが(うろおぼえ)、『墨東奇譚』にも似たような表現があったと思う。どちらも、作家には娘の胸の内が手に取るようにわかっているんだけど、娘には作家の気もちがなにひとつ伝わっていない。

ただし似ているのはここまでで、両作品には大きな違いがあり、『墨東奇譚』では、大江の心理がことこまかに描写されているけれども、『雪国』の島村の心理描写はバッサリとカットされている。

ぼくはわかいころにまず『雪国』を読んだので、主人公、島村の心情をさっぱり理解できなかった。

その後、『墨東奇譚』を読み、大江の心情を理解したことでようやく島村の気持ちに納得したわけで、つまり、『墨東奇譚』が『雪国』の解説本みたいな役割をしてくれた。

とはいえ、今日ウィキペディアで見てみると、この2つはほぼ同年(1936~37年)に出版されているので、どちらがどちらに影響を与えたということもなさそうである。

もしかすると、昭和初期の社会事情が似ていたから作品が似たのかもしれない。当時の売れっ子作家は、身売りされた若い娘と今でいう「パパ活」のような関係におちいりやすく、それを題材にして作品を書くとつい似てしまったのかもしれない。

しかし、上にも書いたように、『雪国』の島村の心理がなかなかわからなかったのは、描かれていなかったからだ。高校生には、描かれていない中年男性の心境を想像でうめられるほどの経験値がなく、男性といえども理屈抜きに「共感」するのはムリだった。

しかし逆の経験もしたことがある。アタマのいい女性と付き合って、女性心理をスパスパと言葉で解説してもらって、心の動きを少しわかるようになった。

なぜここで怒ったのか。

女性同士でどういう戦いが繰り広げられているのか。

あの女が性悪だということはどういうことなのか。
などなど。

それとは反対に、自分を客観的に見ていない女性の文章を読むと、いまでもわからないことはある。

理由はわからないけど好感を持ってしまった

とか

自分でも気づかないうちにキライになっていた

とか

知らず知らずに意識するようになってしまった

じつは、「理由なく」と言いつつ理由はあるのだし、「気づかないうちに」といいながらもほんとは気づいているし「知らず知らずに」といいつつも、わかっているのだ。

しかし、女性同士ならなんとなく共感でわかってしまうこの部分に男性が合わせようとすれば、ただなんとなくではうまくいかない。言葉にされていない部分をいちど言葉に分解して理解してから、もういちどカラダにおぼえこませるのでなければ、うまくいかない。

もしかすると「男性心理がわからない」と嘆いている女性にもおなじようなことがおきているのかもしれない。男性の側が、自分の感情を相手の女性がのみこめるような言葉に翻訳できていないのだ。

異性との認識のくいちがいは、共感だけでなんとなく埋めようとしてもムリではないだろうか

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