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自然界に人が戻るべき場所はない

数百年前のヨーロッパで「自然状態」という考え方がはやったことがある。自然状態とは、人を社会の不自然なしばりから解放して、ごく自然な状態においたらいったいどうなるのか、という一種の空想である。

ただし、これは経済学の仮定する「合理的経済人」みたいなものだ。そんな合理的な経済人がどこにも存在しないのと同じく、自然状態で生きている人間もいない。人類がかつて「自然状態」で生きていたことを示す証拠は世界のどこからも見つかっていない。

起源をさかのぼれば、たぶんアダムとイブの楽園あたりに行きつくのだろうが、近代社会の息苦しさから生まれた幻想でしかない。あえていえば、狼に育てられた少年がそれにちかいかもしれないが、最近は科学的に否定されているそうである。人が人であるためには不自然さが必要なのだ。

我々人間が言葉を用い、複雑な思考を行ない、豊かな感情を持つのは、決して生得的なものではなく、放っておいてもそのような資質が自然に発生する事はないとされている。(Wikipedia 「狼少年(野生児)」)

とはいえ、ぼくたちも、ある種の不自然な状態に窮屈さを感じることがあるのは事実で、疫病の蔓延で行動を制限されている今がまさしくそうだろう。

だとしても、疫病がおさまったら自然状態に戻るわけではない。不慣れな「不自然状態」から、自分の慣れ親しんだ「不自然状態」へ戻るだけである。サルは、居酒屋にも、ロックコンサートにも、外国旅行にもいかない。

かりにいま、僕が一切の束縛から解放されて、好きなようにしろと言われたら、エアコンの効いた部屋で、タブレットで映画を見て、カップ麺を食べて、コーラを飲むだろう。これがぼくの慣れ親しんだ「不自然状態」であり、それ以外に帰る場所はない。

人類の歴史が疫病との闘いの歴史だとすれば、今こそが「自然状態」だという見方も成り立つ。これは詭弁ではない。戦争と似ている。ぼくの生活感覚からすれば戦争も疫病もないのが自然に感じられるけれど、それはかなり恵まれた状態で生きてきたというだけのことである。過去も未来も含め、人間の歴史を見渡せばかなり特殊なことだと思う。

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