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それでやれないことは、もともとやれないこと―エリック・ロメールの『満月の夜』

プロ野球の「合同トライアウト」というと、一度クビになった選手が再起をかける最後のチャンスだ。

追い詰められた選手たちを密着取材するのが、最近のテレビでは恒例になっているが、あれを見ていると、トライアウトに参加する選手には「まだ、やりのこしたことがある」という強い思いがあるのがわかる。

悔いを残さないために「家族と離れて一人で生活する」といった選手も現れる。しかし、厳しい言い方をするなら、球団から必要とされているうちにそこまで自分を追い込むべきだった。クビを言い渡されてからのわずかな期間に、急に変わったりできるもんじゃない。

だから、やっぱりそのあたりが、その人ののびしろの限界なのだろう。

ぼくもう54歳なので、これは他人事ではない。同年代のあいだではぼつぼつ年金の話題も出始めた。みな人生の引き際を意識し始めている。

しかしぼくは「まだ、やりのこしたことがある」という気持ちが消えない。つまり人生のトライアウト期間にさしかかっている。

だから自分を追い込んでコツコツとやってはいるんだけど、それでもすべてをなげうって目を血走らせているかというと、そこまではやっていない。

ぼくの甘さは、映画を見る時間を削ることができない点にある。

映画は、ぼくにとっていまさら別れ話を持ち出すには、あまりにも長く付き合いすぎた相手のような存在だ。

とはいえ、映画は、ぼくが人生の決着をつける場所ではない。ぼくはしょせん行きずりの観客に過ぎず、映画を見るのはムダな時間である。

しかしそれをやめられないというか、

これをやめてなんの人生か?

と思ってしまうときがあるのだ。最近も、エリック・ロメール監督の『満月の夜』(’84)をみていて、そう感じた。

この映画のラストシーンで、不倫した主人公は後悔してうちへ帰る。その直前に、カフェによってコーヒーを飲むちょっとしたシーンがあり、そこで隣の席にいた絵本作家と、やや深い人生のやり取りをするのである。

彼女はその絵本作家に、混乱している胸の内をついうち明けてしまう。赤の他人だからこそ話せたのだろう。そして絵本作家から「満月の夜だからみんな頭がおかしくなるんだよ」と言われるのだ。

ロメール監督の作品にはかならずといっていいほど、こうして物語の流れを止めて議論に深入りする場面がある。

絵本作家が登場するのはこの7分間だけで、ムダと言えばムダなシーンだが、見方によってはこれ以上ぜいたくな7分間もない。テレビでもYouTubeでもこういうことはやれないし、気ぜわしいサイバー空間にこの7分間がはいりこむ余地はない。

絵本作家にに出会うためには、観客はそこまでの1時間20分のまったりした時間をうけいれなければならず、だれもが彼に出会えるわけではない。

しかしファンはこういうシーンをまちのぞんでおり、ロメール監督も支持されていると信じていただろう。そういう相互理解の上に成り立っている濃い7分間だ。

とはいえ、ぼくが「人生でやりこのしたこと」に向き合うには、こんな7分間などまったく不要なのである。

がけっぷちのプロ野球選手にこのシーンが役に立たないように、ぼくにとってもまるで役に立たない。しかし、この豊かさを捨てることがどうしてもできないのだ。

むしろ、出会えてよかったと思う。この時間のために生きているような気すらする。これを捨ててて生きている意味がないとも思ってしまう。

だから、もう思い切るべきときだ。

ぼくはこの時間を捨てることができないし、それでやれないことは、もともとやれないことだ。そういうものだとあきらめることにして、生きている限り、こういう時間と付き合い続けていくことにする。


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