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生涯、ゼロダジャレ

ある程度の年齢にになってくると、だれしもなにかしら、加齢に逆らおうという気持ちが起こってくるはずだ。

若い頃のスリムな体型を維持したい

という人もいるだろうし、

流行に敏感であり続けたい

と思っている人もいるはずで、

おしゃれを忘れないようにしたい

とこころがけている人もいると思う。

だんだんどうでもよくなってくる

逆に言えば、年を取ると、スタイルとか流行とかおしゃれなど、若い頃大事にしていたことがだんだん「どうでもよくなってくる」のが自然の流れだ。

年を取るといろいろと問題が降りかかってくるので、それどころではなくなる。

子育てをやっている人なら、子供の進学やいじめに頭を悩まされるだろう。さらに年を取ってくると、健康不安も大きくなってくる。コレステロール値が上がったり、腎機能が低下したり、高血圧だったり、肝臓が弱ったりする。いつ癌や、脳卒中になるかわからないし、そうなったときのための備えも必要だ。

そのうえで、親の問題がのしかかってくる。

ぼくも今、親の認知症に振り回されているが、これはぼくにかぎらず、超高齢化社会の抱える深刻な問題だ。暇そうなお年寄りが、やりたいことのいっぱいある若い人の時間や体力やお金をじりじりと奪っていく。

もちろん、年を取ることにもいいことはあるのだが、以上のように、フィジカルを中心としてさまざまな問題がのしかかってきて、めんどくさいことがふえる。

そうなると、体型とか、おしゃれとか、流行とか、そういうことにいちいち気を使っている余裕がなくなり、だんだん「どうでもよくなってくる」。

加齢に逆らおうという気持ちを失わない

しかし多くの人は、こうした問題に押しつぶされそうになりながらも、なにかしら加齢に逆らおうという気持ちを失っていない。ぼくがそうだし、ほとんどの人はそうだろう。

40代は自分のフィジカルを考えていればよかったが、50代に入れば親の問題に振り回されることも増えてきた。60代はまだ経験したことがないけど、今以上に「死」というものが接近してきて、体も今以上に無理が効かなくなってくるのだろう。

そのうえで、60代であろうと、70代であろうと、どこかしら「成長したい」気持ちというか、加齢に逆らえる範囲で逆らって、フレッシュに生きていきたい気持ちを失うことは、ぼくはないのではないかと思う。

生涯、ゼロダジャレ

そこで今日の本題は「ダジャレ」である。

世のなかにはダジャレの好きな人も多いに違いないし、それはそれで結構だ。敵に回すつもりはないし、他人のことにとやかく言う気も全くないのだが、自分がこれから加齢に逆らっていく気概の旗印として、ここに、

生涯、ゼロダジャレ

を宣言したいと思う。

ぼくは笑いが好きだし、人を笑わせるのも好きだが、ダジャレはあまり言ったことがない。けっしてダジャレの好きな人を怒らせるつもりはないのだが、ダジャレは笑いの中ではなんとなく安直なものだと感じている。

笑いというのは、その場の状況にあわせて繰り出されるもののはずで、相手が男性か女性か、年上か若い人か、仕事上の取引相手なのか、昔からの友だちなのか、哀しい場面なのか、厳粛な場面なのか、飲み屋で語り合っているのか、いろいろな状況をすばやく判断して、その場に合わせた笑いが求められる。

たとえば、「ラクダはラクだ」をとりあげてみよう。

もし今、あなたがエジプトでおんぼろのレンタカーを借りて旅をしている途中に故障して立ち往生しているとしよう。そこをラクダに乗ったおじいさんがゆうゆうと追い抜いていったら

ラクダはラクだねえ

でも、いいかもしれない。しかしダジャレの好きな人は、仕事の打ち合わせの最中だろうが、ひさしぶりにあった友人と食事の最中だろうが、半径10キロ以内にラクダが存在するかどうかは一切考慮することなく、だしぬけに

ラクダはラクだねえ

と言ってくる。それまでだれもラクダのことなど考えていない状況で、単に「ラクダ」と「楽だ」は音がおんなじだということを指摘されても、おもしろいわけがない。しかし、スルーするのも失礼なのでなにかリアクションしなければならないのが、うっとうしい。

こういうことが頻繁に起こるのがうっとうしい。

ダジャレを迷惑に感じる時

こういうことをあらためて考えるのにはきっかけがあった。

ひさしぶりにあった幼なじみとドライブに出かけたところ、運転しつつ、5分に1回以上のわりあいで、ダジャレを連発してきたのである。しかもだいたいは中学生レベルの下ネタまじりのダジャレだ。

最初は聞き流していたのだが、だんだんリアクションするのがめんどうになってきたので、

だじゃれはもういらない

とはっきりと伝えた。にもかかわらず、止まらず、ひたすらダジャレを繰り出してきては

これどう?
これどう?

といちいちリアクションを求めて、1人で笑っている。

老化とダジャレ

ところで、おじさんのダジャレについて本格的に追求したウェブ記事があった。この筆者は40代の人らしいが、ぼくと同意見で、ダジャレは周囲に笑いを誘うサービス精神というより、自己満足なのである。

筆者によれば、中年になってダジャレが止まらなくなるのには理由があるらしい。

中年になるとダジャレなどを思いつく側頭連合野の働きは活発になるが、理性をつかさどる前頭葉の機能が低下してきているため、「思いついたおやじギャグがフィルターにかけられず発せられる」現象が多発することとなる。結果おやじギャグ、ダジャレを言うおじさんが誕生するのである。

つまり、脳の老化にともなって、言わずにいられなくなるということらしいのだ。ということはぼくの友人は、すでにその前頭葉のブレーキがかからなくなっているのかもしれない。

"万円おじいさん"

ちなみにダジャレおじさんは60代になると激減しするのだそうで、ダジャレをひらめく脳の働きが衰えてくるからだという。

それでもユーモアを維持したい人は、“万円おじいさん”になっていく。

ほら、

はい50円

の代わりに

はい50万円

っていう人いるじゃないですか?あえが“万円おじいさん”で、ダジャレをひらめくことができなくなってきても、ユーモアを言いたい気持ちが残っていると、「万円」というひらめきの必要ないユーモアに流れるのだそうだ。

加齢への抵抗としてのダジャレ

とはいえ、年を取ったからと言ってひらめきが失われると決まったわけじゃないし、きるだけおくらせることはできるはずだ。だから、ぼくはダジャレ以外の笑いで老化に逆らっていこうと思う。

そしてダジャレの好きな人の場合は、ぜひ60代になっても70代になっても「万円おじいさん」にならずに、だじゃれを連発していただきたい。それも立派な加齢への反抗だ。

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