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頑固な人ほど他人の考えを変えようとしたがるのはナゼか

ぼくは考えをコロコロとよく変える。「これだけは頑として譲れない」といったようなものはあまりなくて、人の考えに納得したらすぐに「なるほど」と思って「それもありだな」と考えを変える。

一方で、世の中には「これだけは頑として譲れない」みたいなものを持っている人もいる。たとえば、「原発は絶対にダメである」とか、「平和憲法は絶対に維持すべき」とか。その逆もいるし、さまざまな頑固な人々がいる。

そう言う人は、それが正しいと信じ切っているわけだから、自分の考えは絶対に変えないしテコでも動かない。そして、頑固な人ほど他人の考えを変えようとしたがるのである。

自分がそれほど頑ななのだから、相手だって簡単に変わったりしないこともわかりそうなものだが、しかし、自分が変わらない人ほど他人を変えたがる。

一方で、考えをコロコロと変えるような人は、ぼくもそうだがあまり他人の考えを変えようとしてがんばらない。これが不思議と言えば不思議だったんだけど、よくよく考えてみると、これもまた自然なことなのだ。

自分の意見がコロコロ変わる人は、そもそも確固とした信念を持っていないからこそコロコロ変わるわけで、つまり「わかっている」という確信より「わからない」という疑念のほうが強いタイプだ。なので他人に対しても「じっさいのところはよくわからないんだけど」という以上に押し付けるべきものを持っていないのである。

一方、確固とした信念を持っている人は、「自分の考えは、絶対的に正しい」と思っているわけで、だからこそ、まちがっている人を見つけたら正しい方向へ導いてあげようというがんばるわけである。

他人の考えを変えようとがんばる人は、支配欲に燃えているわけでも、パワーゲームをやっているのでもない。パンを分け与えるように真理を分け与えようという親切心のカタマリなのである。

そう考えてみると、「頑固な人ほど他人の考えを変えたがる」のはじつに理屈に合っていることがわかる。

さて、ぼくは「コロコロと意見を変える」ヤツなわけだが、そのわりには絶対に変えないこともあって、それは映画への感じ方である。「絶対的な感じ」のようなものがわいてくると、それがあとで変わるということはない。そこが不思議だったので、こないだそのあたりのことをまとめて書いてみた。(心の底まで届いた映画)。

さて文化人類学者の山口昌男氏の「異人と権力」というエッセイを読んだ。これはテオ・アンゲロプロス監督の『アレクサンダー大王』(’80)という映画を文化人類学で論じたものだ。

氏はこの作品を「映像による文化人類学」であり、「権力と共同体についての洞察に満ちたエセ―(試論)」であるとして、細かく分析している。

読んで「なるほどー」と感心したんだけど、しかしぼくの意見が変わったわけではない。気持ちとしては

やっぱりな・・

である。

くわしいことがわからなくても、すごいものはすごいということだけはなんとなくわかるものなのだ。あとで、山口氏のようなエライ人がきちんと説明してくれて

ほら、やっぱりな・・

などと思っている。このあたりの「わけのわからない絶対感」は、小説や音楽やマンガには感じたことはなく映画だけなのだが、もしかすると頑固な人につうじる何かがあるのかもしれない。


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