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世の中に正解はないとぼくは思いたい

かつてぼくがある組織に勤めていたとき、大きな不祥事がもちあがったことがある。国際的な問題になる可能性があり、地元の左翼系新聞がさわぎだした。

しかし、組織の内部をリアルタイムで経験していたぼくが感じた「真相」と新聞に書かれていた「真相」とは似ても似つかないものだった。胸を痛めて奔走していた人が加害者とされ、彼女を困らせていた人が被害者と書かれていた。

前者が要職にあり、後者が一留学生だったため、新聞は無条件で後者の援護にまわった。

さいわい小さな町だったので、ある人がコネを使ってウラで手打ちをし、全国区の問題になるまえに収めることができた。

こういう経験があると、「マスコミはウソばかりだ」という考えに傾きやすい。

ぼくがそうならなかったのは、学生時代に「現象学」というかなりコムツカシイ哲学にハマっていたことがおおきかったと思う。とはいえ、それを思い出したのはつい先日のことで、今、海の向こうでおこっている騒ぎや、それに影響を受けているこの国の人々やメディアを見ているうちに、なんとなーく思い出したのである。

ここでコムツカシイことを語る気はないし、そんな力量もない。一シロートとしてぼくが現象学からうけた影響は、昨日ツイートした一言で足りる。

ぼくは、5秒に1回ブレるのである。

なぜかというと、人が見たり感じたり読んだりしている「現実」はすべて「テレビ画面のようなもの」だと思っているからだ。これをムツカシク言い換えると、すべては「現実ではなくて現象だ」ということになる。

ぼくが見聞きするすべては「ぼくの意識」というフレームの中に収まっているテレビであり、編集され、限定されている。

なので、マスコミのかき立てた内容がウソで、ぼくが体験したことが真実だとばかりもいえない。マスコミも、ぼくも、どちらもテレビをみているのは同じだ。ただし見ている番組がちがう。

ぼくのみていたテレビの方が、現場に近くて良い番組だった。

とはいえ、どちらもテレビなのだから、マスコミの見ているテレビが完全にウソで、ぼくの見ているテレビが完全に真実とはかぎらないのである。マスコミ報道にも真実が含まれているかもしれないし、現場で「現実」を見ていたぼくにも、かんちがいがあったかもしれない。

それをチェックしたくて、ぼくは5秒に1回チャンネルを替える。つまり、かれらの見ているテレビを見てみる。視点を入れ替えてみる。つまりブレる・・ということをするのだと思う。

もし、ぼくが「あいつらは大ウソつきで、こちらが真実だ」と言えば、マスコミは「おまえらは虚偽集団だ」と返してきて100年戦争が勃発するだろう。

しかし、ぼくが「マスコミにも真実が含まれているかもしれない」という態度をとり、マスコミが「あいつの言い分も聞いてみよう」となれば、なんとか歩み寄ることはできるかもしれない。

このnoteでも、「どんなに自分の方が正しいと思っても、まちがっている場合がある」ということをしつこく書いてきた。これは自分に言い聞かせているのである。

そういう態度をとる以外に、ぼくには社会に希望を見いだすことができない。

***

今回の乱入事件でも、当日デモに参加していた人が見ていたのが現実で、ぼくが見たのがテレビだというわけではない。

彼らもぼくもテレビを見ていて、チャンネルがちがっていただけだ。もちろん、現場に居合わせたひとのほうが、良いテレビを見ていた。だが、テレビはテレビである。

世の中に「真相」みたいなものはたしかにあるかもしれない。ぼく自身、15年ほど黙って抱えこんできた「真相」があった。掛け値なしの「世界規模」だ。「絶対に口を割るな」と言われていたけど、その当人が亡くなって10年になるのでそろそろいーだろうと思って、こないだ狭いサークルで語ってみたらわりと反響があった。

ただし、これもしょせん「ぼく」というフレームで切り取ったテレビでしかないと思っている。これしきのことで、ぼくが「テレビの外側の真実に触れた」とかんちがいするのが、一番キケンなフレームだ。

「自分たちだけが真実を知っている」と信じるカルト集団は、自分がテレビを見ていることを忘れている。

だが、カルトを追い詰める社会も、自分がテレビを見ていることを忘れているという意味では、おなじくらい危険である。

どっちもテレビなのだから、ぼくはチャンネルをたえず切り替えながら見ていたい。

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