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レッテルをはがしたい

今日はちょっとぶっ飛んだ話なので伝わらないかもしれません。しかし今日はこれ以外に頭に浮かばないのです。

さて1990年代に見た映画で、タイトルも内容もおぼえていないにもかかわらず強く印象に残っているものがある。記憶しているのはフランス映画だったこと。ミュージカルだったこと。かなり古い作品だったこと。そして、ジャンリュックゴダールの元奥さんが主演していたことだけだ。

にもかかわらず印象に残っていいるのは、見終わってすぐに「世の中のカテゴリーからもっと自由になりたいなあ」と強く思ったからである。カテゴリーというのはレッテルのことです。名札のこと。

たとえば、「本」というのもカテゴリーだ。『ホーキング宇宙を語る』も『吾輩は猫である』も本に属する。一方『アビイ・ロード』、『函館の女(ひと)』はCDである。キャベツ、ポテトチップスは食べ物だ。本はCDではなく、CDは食べ物ではなく、食べ物は本ではない。

なにを当たり前のことをと言われそうだが、この映画を見た後で自分の部屋をながめて、本は本同士でCDはCDだけできちんとならんでいるのをみて急に「オレってつまらないヤツだな・・」と思えてきたのだ。

たとえば冷蔵庫に『アビイ・ロード』が入っていて本だなにキャベツが載っていてもべつにいいんじゃないだろうかと。メンドクサイからやらなかったけどいまだにその感じを引きずっている。そういうレッテルから自由になりたいと強く感じる。ちなみにこの作品はアンナ・カリーナ主演『アンナ』ですね。便利な時代ですね~。

予告編を見ても内容をさっぱり思い出せないが、イカれた映画だったということは伝わってくる。なにかに触発されたのだろう。

さて話は変わるが、たとえばネコはネコであつまっている。そしてネコ同士で縄張り争いをする。そしてアフリカのサバンナに行けば(行ったことないけど)シマウマはシマウマ同士、ライオンはライオン同士で群れている。

しかしこれは「ネコ」「ライオン」「シマウマ」という名札に沿ってクラス分けされたのではない。なんとなーく波長の合う同士で集まっているだけなのだ。そこにあとから人間が「あれは猫、これはライオン」とレッテルを貼っただけのことだ。

その証拠に、たまに猫とサルが仲良く暮らしている様子が報道されたりする。あれもなんとなーく波長が合っただけだろう。決して「オレ猫だしお前サルだけど寄り添おう」などとは考えていない。

波長で群れるといえば人間もそうである。なんとなーく波長があって群れている若者のことを「あいつらはヤンキーだ」「あいつらはオタクだ」などと周囲はレッテルを貼るが、本人たちは気が合って集まっているだけだ。

さてレッテルには、本やらシマウマやらヤンキーやら以外にもいろいろある。このあたりから話がぶっ飛んでくるんだけどよろしくお願いします。

たとえば形と色というのもある意味レッテルである。時間と空間もそうだ。物質と情報もそうである。人間のアタマの中にしかない。

形と色は抽象画家たちがあいまいにしてくれた。時間と空間のくべつは、アインシュタインをはじめとする物理学者たちがあいまいにしてくれた。さらにいま物質と情報のくべつがデジタル世界であいまいになりつつある。

こう見ていくと、レッテルをはがす、あいまいにするといっても人ぞれぞれ得意分野があることがわかる。ぼく自身も何かのレッテルを抜け出したい衝動が強いのだがそれが何なのかがいまだにわからない。ただしなんでもやれるわけではないこともわかってきた。どうやら文字を書いて考えることでしかなにも抜け出すことはできないのだろうなあと最近思い始めた。

とはいえ今の世の中は、経済不安、変異種、貧困、高齢化、少子化、気候変動などが待ったなしである。まずは生き延びるための知恵を絞らないとどうにもならない。レッテルを抜け出すとか悠長なことを言っていられるような余裕がない。しかたがないけどツマラナイなあと思っている。いまあらためてそういうふうにおもっている。

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