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いざというときに誰と組むか?

映画などによくあるシチュエーションで、たとえば、これから銀行強盗をやるとか、だれかと組んで危ない橋を渡らないといけないようなばあいに、いちばんだいじなのは

だれと組むか

ということだ。

黒澤明の『七人の侍』では、浪人が7人あつまって盗賊から村を守るという用心棒を請け負うわけだけど、7人そろえばだれでもいいというわけではない。

パートナーが頼りなければこっちの命まで危なくなるのだから誰と組むかが生命線である。しかし、食い詰めた浪人者で、腕がよくて信用できるヤツなんてそうそういないので、オーディションにはずいぶん手間がかかる。

『ヒート』('95)というアクション映画では、デ・ニーロとその一味が現金輸送車を襲うんだけど、一味の多くは鉄の結束で結ばれている。

でも、ひとりだけ新参者が加わっており、こいつが信用できないのだ。デニーロと仕事の哲学が合わない。

デ・ニーロはむだに人を殺すことはしない主義なんだけど、この新参者があっさりと警備員を殺してしまい、そこから足がついて全員が追い込まれてしまう。

ぼくらの普段の生活の中では、斬った張ったの勝負をすることはないけど、それでも、だれかと組んで自分を賭けなければならないことはある。そういう場合には、だれと組むかをシビアに判断しなければならず、そしてぼくも自分なりの基準というか「これはダメ」というのはある。

十分な熱量を感じさせてくれない人はダメである。集中力が足りない人とは本気で組む気になれない。

若いうちはそういうことは気にならないだろう。高校生が部活動をやったり、文化祭の準備をやったりしている場合には熱意をみなぎらせいるのが普通である。

でも、50年も生きているとそうではなくなってきて、自分より年上の人を見ていると、還暦を過ぎても覇気がみなぎっている人と、生気がなくなったような人に二分される。

体力の問題もあるのだろうが、最低限の体力さえ確保できていれば、あとは世界を見る目線というか、どこを目指しているかでちがいが出てくるようだ。

たとえば、昨日は『Shall we ダンス?』という映画を紹介したけど、これは社交ダンスの競技会を目指して、場末のダンス教室でがんばる中年男女を描いた物語である。

競技会に出るにはペアを組まなければならないが、たとえばあなたがだれかと組まなければならない場合に、単ににうまい人とか要領のいい人ではなくて、熱く取り組んでいる人と組みたいと思いませんか。

すぐに「休憩しよう」と言い出したり、自主練習をさぼって同じまちがいをくりかえすような人とは組みたくない。こっちのやる気までしぼんでしまう。

主人公の杉山さん(役所広司)は、もともとそういう覇気のない中年男性だった。結婚し、子どもが生まれ、念願のマイホームも建てた。でもそうなってから、心に穴が開いたようになって仕事に熱が入らない。

ぼくより年齢が上の人になるとわりにこういう人はいる。なんとなく先が見えてきて、むりせずテキトーにやってれば無難に老後を迎えられる。そういうタイプの人は口ではもっともらしいことを言っていても、いざというときに

一気にかたづける集中力

みたいなものを出してくれないので「ああ、そんなものなのか」と思ってちょっとがっかりしたりするのである。

ぼくがそういう風に人を見ているので、逆に自分がそうならないように気を付けており、なにかを片付けないといけないときには目の色を変えて一気にやることにしている。徹夜でやる。

今日はここまでにして続きは明日にしよう

と思うようになったらダメなんじゃないかと思っているので、どんなに疲れていてもぶっとうしで朝までやる。

これは仕事にかぎらず、映画だって今でも3本くらい一気に見ている。3本も見ると脳みそのしわがツルツルになってストーリーが入ってこなくなるんだけど、それでも見続ける。

『Shall we ダンス?』の杉山さんも、競技会に出ることが決まってからは目の色が変わり、職場のトイレでも踊るし、机の下でも足がステップを踏んでいるし、会社からの帰り道では橋の下で踊ってから帰るのだ。

生き生きしているというのはこういことではないだろうか。ニコニコ楽しそうにしているというのではなくて、覇気がみなぎって集中力があるということだ。今風に言うとコミットしているということかな。ここ数年とくにそう思うようになった。

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