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定食屋はなぜ飽きられないのか?

定食屋の話

昨日紹介した映画『精神』には続編があり、『精神0』(2020)という。当然ながらすごくいい作品なんだけど、今日はその紹介ではなくて、映画の中に出てくる定食屋の話をしたい。

診療所「こらーる岡山」の近所に定食屋があって、映画の中にちょくちょく出てくるのだ。

その定食屋は、精神病患者の社会復帰を支援してくれているところらしくて、つまり、おいしいことはおいしいのだろうが、福祉の延長っぽい雰囲気がある。

山本先生や患者さんは毎日のようにそこに通っているらしい。その定食屋を見ていて感じたことを書いてみる。

結論から言えば、個人のnoteの理想は定食屋のだと思うので、せっかく掲げた「映画ブログ」の看板は今日で下ろそうと思う(思ったより早かった)。

定食屋はなぜ飽きられないのか

たとえば、銀座の有名レストランはハレの場であり、とてもおいしいのだろうが、毎日、朝昼晩をそこで食べる人はいないはずだ。たまにくるからおいしいのが銀座のレストランである。

一方、どんな食通にも日常のごはんというのがあるわけで、それはおいしい以上に「落ち着く」とか「ホッとする」要素で成り立っていると思われる。

日常のごはんは、いつも変わらず、気取っていないからホッとする。そして定食屋という商売は、その要素を借りて成り立っているように思える。つまり、家の延長みたいところで営業が成り立っている場所が定食屋である。

定食屋に足が向くのは、落ち着いたり、ホッとできるからであって、習慣性に訴えているからだろう。毎日、何も変わらず、開いているのが大事なところだ。

ファミレスと定食屋はちがう

動画もブログも音声メディアも、毎日更新している人は多い。毎日更新するというということは、習慣性に訴えているわけなので、飲食店に例えるなら、銀座のレストランよりも定食屋に近いところを狙っているのだろう。

さて、ここからちょっと微妙な話になってくるけど、毎日更新されているメディアには、個人のもの以外に「大手」の存在がある。

たとえば新聞がそうだ。新聞は毎日発行され、読者は毎日読むのが習慣になっているから読まれる。この新聞を飲食店に例えるなら、銀座の名店でも近所の定食屋でもなく、ファミレスチェーン店に近いと言える。

新聞はファミレスみたいなものであり、メニューが豊富で、なんでも揃うフリージャンルの食べ物屋に近い。

ウェブでこれに近いものを挙げるならは、ヤフーニュースだろう。
あれは情報のファミレスみたいなものであり、なんでも取り扱っていて24時間開いている。大手ならではのやり方だ。

しかし定食屋は違う

個人の発信者は、ああいった大手の360度の対応力にはかなわないので、ある程度、ジャンルを絞ることになる。

お笑い系とか、心霊チャンネルとか、格闘技専門とか、プロ野球チャンネルとか、ゲームチャンネルなどという風に色を付けて看板を上げる。

ただし・・テーマをしぼっているコンテンツは、視聴者としてのぼく自身の経験から言わせてもらうなら、毎日更新しても、毎日読まれることはあまりない。

食べ物屋に例えるなら、カレー屋、ラーメン屋、お好み焼き屋、焼き肉屋・・そういう感じに近い。完全に飽きるということもないけど、週一、月一で通うかんじで、毎日通おうとは思わない。

それで成り立つならOKなんだけど、ぼくはできれば、「こらーる岡山」の近所の定食屋みたいな感じを目指したい。気取らず、肩が凝らず、落ち着けるんだけど、毎日新しい発見があるような、そういう感じをできれば出したい。

定食屋になるにはどうすればいいのか?

映画「精神」に出てくる定食屋は、ファミレスみたいになんでもそろっているのではなく、「日替わり定食」一本である。そんな定食屋に飽きがこないのは、日替わりのおかずで目先を変えてくるからだ。

定食は、ごはんとみそ汁がついているのが定番フォーマットであり、これが落ち着きを醸し出す。それに加えて、メインのおかずと副食が目先を変えてくれるから飽きがこない。

では、noteで定食屋風に発信するにはどうすればいいのだろう。
毎日食べて、毎日飽きない、落ち着きと多様性を兼ね備えるにはどうすればいいのだろうか?

ブログにおけるごはんとみそ汁はなにか

とどのつまりは、個人の発信における「ご飯とみそ汁」はなんなんだろう?ということになるのだが、これはぼくだけでなく、あらゆるnote発信者や、その他の発信者が知りたいことだと思う。

ぼくがこのnoteを「映画ブログ」にしようと考えたのは、この問いに対する1つの答えだった。映画を批評するブログにするつもりはなく、どこかでかならず映画に言及することが、ごはんとみそ汁みたいにならないだろうかと考えたたわけだ。

しかし、ならない・・

しかし、ここ数日やってみたところ

映画という縛りは、定食屋のごはんとみそ汁にはならない・・

と正直感じる。映画という看板は、どうやってもラーメン屋やカレー屋みたいになってしまって、定食屋にはならない。

ブログにおいて、定食屋の「飽きられない統一感」に相当するものが何かを突き詰めると、結局のところ、

発信者の人柄

以外にないのだ。避けたい結論だがどうやら他にないのである。自分の人柄で統一する以外に道はなさそうなのだ。

映画好きだったり、クルマ好きだったり、オカルト好きだったりする部分は、焼き肉やラーメンにはなっても、ごはんとみそ汁にはならない。

はたして自分の性格で?

しかし、はたして自分の性格が定食屋のごはんとみそ汁の代わりが勤まるのか?という大問題はだれもが感じると思うけど、しかし、道はそこにしかない。

ここで、恥ずかしいけどあえてぼくの性格を棚卸してみよう。自覚している性格は以下のとおりである。

基本、きげんがイイ。調子がイイ。わりとおせっかいで、直感で動く。突拍子もないことを言う。面白いことを言う。理屈っぽいことも言う。怒りとか怨念みたいなエネルギーはあまり持っておらず、総じて変人。

このあたりだろう。おわかりのように、ごはんっぽい要素はあまりないのだが、それでも定食屋を目指すには、これをごはんとみそ汁にする以外に道はない。

他に道はない

ぼくの性格でごはんとみそ汁が勤まろうが勤まるまいが、これでやっていくしかない。

・・ということなので、「映画ブログ」の看板はいったん引っ込めようと思います。ブログを書き続けるということは、人間力の養成課程なのかもしれません。

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