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腐ったミカンをどうするか

二人の剣豪

井上雄彦『バガボンド』といえば長期休載中のマンガの代表中の代表だけど、第37巻がでたのが2014年だったのだそうなので、あれからなんと8年にもなる。

8年も書いていないのにみんなに待ち望まれている作品などそうそうあるもんじゃない。マンガ家というのはたいへん厳しい職業だと聞くし、食えない人も多い中で、描けば売れるに決まっているにもかかわらず8年間「描けない・・」で成り立っている人もいるわけだ。まとこに実力次第というか、「作品のクオリティがすべて」というか、格差社会がここに極まっている。

小次郎の剣

そういう『バガボンド』は、剣豪宮本武蔵の生涯を描く作品であり、武蔵のライバルと言えば、小次郎である。

巌流佐々木小次郎が、どういう人だったのかについてはほとんど史実が残っていない。29歳で亡くなったという人もいれば、老人だったという人もいる。

ただ、鐘捲流(かねまきりゅう)で有名な剣豪鐘捲自斎(かねまきじさい)の弟子だったのはどうやらまちがいないらしく、そして、鐘捲流の弟子の中にはかの「一刀流」で有名な伊藤一刀斎がいたわけだが、一刀斎と小次郎のあいだに交流があったという史実はないようだ。

しかし、『バガボンド』の中では一刀斎と小次郎が兄弟弟子だったという設定になっており、また師匠の鐘捲自斎は、小次郎の師匠ではなく育ての親だったといことになっている。マンガが史実に沿っている必要はないので、それはそれでいいとして、要するにマンガの中の小次郎は、

鐘捲自斎と伊藤一刀斎という二人の剣豪に育てられた

ことになっているのである。

やさしい教え方ときびしい教え方

そして井上ワールドでは、育ての親の鐘捲自斎と、兄弟子伊藤一刀斎が、小次郎に対して

正反対の教え方

をする。かんたんにいうと、鐘捲自斎は「やさしい教え方」であり、一刀斎は「きびしい教え方」である。

鐘捲自斎は村の子供たちをあつめて「鐘捲道場」をひらいて、農民に手取り足取り剣術を教えるやり方だ。才能のあるものもないものもわけへだてなく、手取り足取り一から教える。

一方の伊藤一刀斎はというと、

世の中で強いのはオレだけ

みたいなゴーマンオヤジである。そんな一刀斎は、あるとき師匠鐘捲自斎から

小次郎をよろしく頼む

と託される。

成長した小次郎の天賦の才をみた鐘捲自斎は「小次郎の器がどれほどのものかもう自分にはわからなくなった。小次郎をお頼み申す」と弟子に対して謙虚に頭を下げるのである。

それにたいして、一刀斎はこう答える。

わしにもわかりません。
わしには自分ことはわかるが人のことはわかりません。
わしにいえることはただ1つ

わしになれ

と。そして、落ち武者のあふれる戦場に小次郎を置き去りにする。生き延びたければ、わしのように強くなれ、と。ライオンが子どもを谷に突き落とすやり方だ。

このやりかたは、現代でいえばイーロン・マスクのやり方である。マスクはTwitterの大量リストラをやっているけど、かれから伝わってくるメッセージは一刀斎と同じで、

わしになれ

である。マスクに限らず、シリコンバレーで帝国を築き上げたような経営者はみな同じで、

生き延びたければ、わしになれ

としか言わない。この手の「弱いものは死ぬ。死にたくなければ強くなれ」というサバンナの掟みたいな考え方は、現代では「リバタリアニズム」と呼ばれ、自由至上主義などと訳されている。

というわけで、マスクは使えない社員をどんどんリストラして強いものだけのを残し、強い会社を作りあげていくというリバタリアニズムつまり「きびしいやり方」をやっているわけだが、これはこれで一理ある。

腐ったミカンをどうするか

日本企業のように「仕事しないおじさん」をたくさん抱え込めば、目先のところは弱者救済になるかもしれないけど、長い目で見れば会社全体が弱っていくので、みんなが困る。

とはいえ、マスク流にも問題もあって、彼のやり方で行けばほとんどの人間は「弱い側」に入ってしまう。一刀斎の「わしになれ」に耐えられるのは小次郎レベルの人たちだけであり、マスクの「わしになれ」に耐えられるのも「マスク並みにエネルギッシュな人間」だけなので、ほとんどの者は落伍してしまう。

マスクのような人は、こういう大部分の人々のことは考えておらず、自分のような者ががんばってどんどんテクノロジーを発達させれば、「いずれ弱者も自然に救われていくだろう」くらいに思っている。

これは金八先生の「腐ったミカン」の考え方だ。

腐ったミカンが一つでもあると、箱の中のミカンは腐ってしまう。他のミカンを助けるためには、腐ったミカンをつまみ出さなければならない

という考えで大量リストラに励んでいるわけだが、金八の言い分はちがう。

私たちはみかんを作ってるのではない、人間を作っているのだ!人間の精神が腐るということは絶対ない!!

こういう弱者を取りこぼさないやり方は「社会民主主義」とよばれているもので、これはこれで1つの見識だといえる。

なにがいいたいかというと、ぼくがいまかかわっているコミュニティには明らかに「腐ったミカン」がいて、しかも、自分が腐ったミカンだとわからず全体をふりまわしている。

しかし、その腐ったミカンをあえてとりのぞかないリーダーも、話をよく聞いてみれば決してリーダーシップが欠けているのではなくて、徹底した金八流なのである。「一刀斎やマスクのやり方では世の中は成り立たない」という信念にもとづいて腐ったミカンに耐えている。これはこれでひとつのやり方なのでリスペクトしなければならない。

では、はたして日本はみんなで腐っていく社会なのだろうか、それとも強者だけが生き残る社会に変わるのだろうか。あいだの道はないのだろうか。

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