マズいものも「マズい」と思わなければ食べられる
料理のうまい/マズいは、おなかの痛い/痛くないくないみたいなことだと思う。ちょっとした痛みなら、ほかに意識を向ければ忘れることができる。
まずいものもあまり「マズいマズい」と思わないでほかのことを考えながら食べればなんとか食べられる。そして、腐っているのでない限り、食べてしまえば同じだ。
ぼくは基本的にそういうスタンスであり、あまりうまいマズいということにこだわらないようにして生きてきた。
ちがいがわからないのではなくて、まあまあわかると思うのだが、そこにあまり力を入れるほどの存在意義を感じないのである。
これについて、哲学者ウィトゲンシュタインがおもしろい説明をしていた。食べ物ではないけど、科学と音楽の存在意義のちがいについてだ。
まず、科学の存在意義は、
というものだ。しかし、音楽は社会に役立つわけではない。
ここで彼が言わんとしているのは哲学の存在意義についてであり、哲学は科学のように社会に役立つものだと思われているけどそんなことはなくて、音楽のようなものだと言っている。
それはともかく、社会には、役立つから存在しているものと、役に立たないけど「特殊な必要」に根差しているものとがあるわけだ。
うまいものにこだわるのも、うまい食べ物でなければ満たすことのできない「特殊な必要」があるからだろう。
ぼくが映画好きなのも、ドラマや演劇では満たすことのできない「特殊な必要」があるからで、それは、撮り鉄が自動車や自転車では満たすことのできない「特殊な必要」を鉄道で満たしているのと同じだ。
しかし、そうすると、お酒や覚せい剤はどうなのだろう。
あれでしか満たすことのできない特殊な必要というのもあるはずだ。
ウィトゲンシュタインは「深い必要」のことを「病い」とも表現しているけど、依存症とどう違うのだろうか。
たぶん、好きと依存症の違いは、銀行とサラ金のちがいみたいなものだと思う。
銀行とサラ金は、「金貸し」という仕組みはまったく同じだ。しかし銀行から上手に金を引き出したら人生は豊かになる一方、サラ金から借りたらかなりの確率で破滅する。ちがいは仕組みではなく、利率にある。
ジョギングと、甘いものと、お酒と、覚せい剤も、脳から快楽物質を引き出す仕組みという点では似ているけど、そのために失うものの大きさがちがう。つまり、利率がちがっている(覚せい剤の快楽はしりません)。
ところで、今日は食べ物にこだわらないようなことを書いたけど、ほんとは食べ物のことを書こうと思っていた。
ぼくはいつも天然酵母の食パンを食べており、お菓子は近所のお菓子屋さんの手作りのロールケーキやかしわ餅。コロッケは肉屋で揚げてもらっていて、ビールは黒ラベルだ。
どれも利率の低い快楽であり、そういうものが好きなのだとおもう。
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