外国語は不要か
みたいな言い方はよくあるけど本当に「ふつうの人」などと言うのはホントはどこにもいないのだそうだ。
おなじく「典型的な日本人」などというのも本当にいるのやらいないのやらわからないんだけど、とはいえ、「普通、日本人ならこう考える」みたいなものはいまだにある気がするし、そして、ぼくはそういうものにうまく適応できずにトラブルを起こすことがおおい。
外国人?
具体的には、一言多いというか、ものごとをはっきりといいすぎる。これは元々の性格なのだと思っていたけど、どうやらそれだけもなさそうだ。
ある人から「性格より経験じゃないか」と指摘されたことがある。彼からは
といわれた。彼の周りには、外国人や、外国生活の長い日本人がたくさんいるので、その人がそう感じるのなら、そうなのかもしれない(元々の性格の問題もあるとは思います)。
また、相手が「イエス・ノー」はっきりと言ってくれなくて、結局何を言いたいのかわからず戸惑うこともあるのだが、これはぼくの性格の問題ではないだろう。
またSNSの時代になってとりわけ思うのは、この国では事実を事実としてストレートに指摘することがむずかしくて、すぐに感情論になってしまうということ。
こんな風に言うとまるで外国人みたいな口ぶりだが、ぼくは日本生まれの日本育ちで20代の後半まで国外に出たことはない。海外に滞在した時間を全部合わせても4年くらいだ。
脳内英語の時間は長い
とはいえ、楽天の三木谷社長はかなりぶっちゃける人だが、たしかハーバードMBAだったはずだ。彼も、元からぶっちゃける人だったのかもしれないけど、MBAで揉まれているうちにその傾向が強まったということは考えられる。
いずれにせよ、外国に滞在している時間というより、頭の中が外国語で動いている時間がどれくらいあるか、なのかもしれない。そう考えるなら、ぼくが外国語で考えている時間を足し合わせれば結構な長さになる。
アメリカ映画を見ている時間ももちろんだが、北米版のゲームをやっているときなどは、必死で地球を守っているので日本語を思い出しているヒマなどない。そして、その部分がすでに性格の一部になっているということは十分に考えられるし、そこの部分が日本語だけで考える人と摩擦を起こしているのかもしれない。
外国語は不要か
これからは自動翻訳が発達して、外国語は要らなくなるみたいなことを言う人もいるが、外国語をあやつる必要はなくなっても、外国語の論理で考えなければならない時間は増えていくだろう。
たとえば現在、プロ野球パ・リーグの監督6人のうち4人はメジャー経験者で、しかも向こうで実績を上げた人たちだ。つまり、英語ができるできないではなく、MLBの考え方をわかっている人たちである。一方で、中学野球の指導者の6割がアメリカ野球の経験者ということはないだろう。
このようにスポーツの世界では、レベルが上に行けば行くほど考え方が世界に開かれつつあるわけだが、これは自然科学でもビジネスでも医療でもなんでも同じはずだ。
これからは、日本独自の考え方だけで通じるのは下の方ばかり、という風になっていくのかもしれない。若い人でも国内しか見ていない人は見ていないので、これは世代交代で片づく話ではなくて、デジタルディバイドとは別の、結構深刻な問題だと思う。
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