見出し画像

孤独な時代に―ジャームッシュの『ゴースト・ドッグ』

食べ物のありがたみをわかっていない子どもが食べ物をおもちゃにするのはよくあるだろう。たとえばパンを丸めて投げてあそぶようなことだ。一方で、食べ物がなくて餓死する人もいるわけで、仮にパンを丸めて蹴っている高校生のグループにホームレスの女の子が近づいてきて

「いらないんだったらそのパンくれませんか。おばあちゃんが栄養失調で死にかかっているんです」

と言われたらかれらはどう反応するだろうか。

「クセえな。あっちいけよ」といってパンを遠くに蹴ってしまうかもしれないが、食べ物を蹴ってあそんでいた自分を恥ずかしく感じるやつもいるかもしれない。

アマゾンのレビューを見ているとパンを丸めて蹴っているような映画批評によく出会う。なぜああいう「上から」の書き方になるのかよくわからないが、そういう連中に自分のやっていることを恥ずかしいと思わせることはできないものだろうか。

かつて10年ほど、ぼくはジム・ジャームッシュ監督の『ゴースト・ドッグ』(2006)という映画になぐさめられていた。

すご腕の殺し屋が主人公なんだけど、こいつは変わり者で武士道的にあこがれている。そのピントの外れた感じがコミカルにえがかれているのだが、アマゾンのレビューにはたとえばこういうのがある。

「 まあ、面白いとしておこう」
なるほど典型的なカルトムービーというやつである。一部好事家のいかにも評価しそうなムービーではある。

「まあ~しておこう」「 なるほど~というやつである」「 いかにも~ではある」・・。はずかしげもなくこんな書き方ができるのはよほどエライ人にちがいない。

さて、この「典型的なカルトムービー」の本質は「孤独」だ。主人公はビルの屋上の小屋でハトを飼いながらひとりぐらししている。武士道で生きているから普通のアメリカ人とはまったく話が合わない。合わないどころか、彼が街を歩いてもだれにも彼のすがたは見えない。

かれが心を通わせることができるのは、フランス語しかしゃべらないアイスクリーム売りと、スペイン語しかしゃべらない近所のおじさん(ビルの屋上で船を組み立てている人)とそれから女の子。この子とは「本の貸し借り」というかたちでしかコミュニケーションがとれない。あとはハトだ。言葉の通じる相手とは心が通じないし、心の通じる相手とは言葉が通じない。

ぼくは10年ほどまったくひとに本心を語らないで生きていた時期がある。ヒトと飲み歩くのが大好きだった自分が1人ですごすようになった。その時期にこの作品を見ると「自分だけじゃない」とおもえてずいぶん慰められたものだ。

さいわい、いまこの作品を見てもあれほどの共感を覚えない。昔聞いたメロディーのようになつかしく思い出すだけが、あなたが足蹴にしているパンに命を救われるやつもいるわけである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?